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【たとえば、こんな未来】 NOCTURNE NO.2 -後編-① 【4】※R18※【レイシン】


マハムール基地は、想像していたよりも静かで、退屈だった。
ひと月に一度行われる、地球連合軍スエズ基地に於ける大規模な軍事演習時とその前後の警戒アラート待機以外は、ウエイトトレーニングや射撃訓練など、比較的自由な時間を過ごすことができた。
夜は"飲む"くらいしか娯楽はなく、時々酒場に顔を出し、破産しない程度に部下に酒を奢っていた。
深夜、酒場から宿舎へ戻り、酔い覚ましに熱いシャワーを浴びた。
湯気で曇った鏡を手で拭い、姿を映す。首筋と強く掴まれた二の腕に残る情事の痕を撫で、熱い息と共にレイの名前をそっと吐き出した。
バスルームを出て、硬いバスタオルで乱暴に身体を拭く。着替えを済ませてベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を眺めた。
会いたい。声を聞きたい──シンは身を捩り、ヘッドボードの上の時計を見た。きっと、レイはもう眠っている。シンは溜息をつき、ブランケットの中へ潜り込んだ。
暇さえあれば、レイのことを考えている。おそらく、レイも、今の自分と良く似た想いを抱いていたのだろう──突然、手紙をくれた彼の気持ちを、なんとなく理解できたような気がした。




退屈な軍務を終えて、訓練用プールへ向かう道すがら、すれ違う女性隊員に声を掛けられ、苦笑いを浮かべて夜の誘いを断る。
宙では、かなり敬遠されている方だったけれど、ここでは、気味が悪いほど女性に声を掛けられた。
レイもきっと、引く手数多だっただろう──いや、他人を寄せ付けない雰囲気を纏った彼に近付こうとする「勇者」は、宙と同様に、ほとんどいなかったかも知れない。
シンはこみ上げてくる笑いをようやく噛み殺し、訓練用プールのゲートをくぐった。
水着に着替え、プールサイドで軽めのストレッチをする。周囲を見渡すと、自分の他に3人の姿を確認できた。
ゴーグルを装着して飛び込み台に立ち、頭から水中へ潜る。片道50メートルをクロールでのんびりと泳ぎ、水の中で身体を回転させて折り返し、背中を下にして浮き上がる。懐かしささえ感じる浮力に身をゆだねて、ガラス張りの天井の上に広がる夕方の空をぼんやりと眺めた。
何を見ても、どこにいても、レイのことが頭から離れない。
2時間ほど軽く泳ぎ続けた後、プールから上がり、シャワーを浴びて宿舎へ戻った。
軍服とブーツを脱ぎ捨て、帰宅途中に購入したサンドウィッチを頬張り、ふと目に留った電話機をじっと見つめた。
シンは受話器を手に取り、レイの自宅の番号を押して、ちらりと時計を見た。多忙な彼は、まだ帰ってはいないだろう。
いつでも連絡を取ることができる携帯電話ではなく、自宅の電話──これは、小さな賭けだった。
帰っていないならば、仕方がない。けれど、もし声が聞けたなら、この上なく幸せな気分に浸ることができる、賭け。
(……3……4……5……)
シンは微かに笑いながら、呼び出しの音を数えていく。10コール目を聞き終えてから、電話を切るつもりだった──
『──はい』
耳元で、低く、甘いレイの声が響く。
「あ……帰ってた」
シンは思わず、間の抜けた声を上げた。
『お前か。どうした?』
僅かに笑いを滲ませたレイの声に、自然と、顔が綻ぶ。
「ちょっと、声が聞きたくて──」
『そうか。……そっちは、退屈だろう?』
「ああ。もっと、殺伐としているのかと思ってた。トレーニングか飲むくらいしかすることがなくてさ──それより、レイ。今、何してた?」
『ピアノを、弾いていた』
受話器の向こう側で奏でられた、分散した和音が耳に届く。そういえば、レイの家の広いリビングの真ん中にグランドピアノが据えられていた。
はじめて、レイと同じベッドで目覚めた朝、帰り際にちらりと横目でそれを見ながら、ずっと一緒にいて、彼の事をよく知っていると思い込んでいたけれど、まだまだ手の届かない部分が多かったのだなと、ほんの少しだけの寂しさを胸に滲ませて部屋を出たのを思い出し、微かに胸が痛んだ。
「何か、弾いてくれよ」
『何が良い?』
「イイ感じの曲」
『意味がわからない。……こちらで好きに弾かせてもらうぞ』
「ああ、まかせる」
シンはベッドに寝転がり、受話器に耳を押し当てた。
低くて重い響きが、疲れ果てた身体に浸み入る。初めて聴く楽曲だったけれど、奇妙な懐かしさを覚えて、シンは、なぜだろうと、まどろみの中でぼんやりと考えを巡らせた。
眠りに落ちるその瞬間に、レイの声のトーンと楽曲の響きがよく似ていることに気付き、シンは小さく息を吐いて笑った。普段の凛とした、落ち着いた声。たまに、頑なな態度と共に聞こえてくる、硬い声──
『──シン』
「……なに……?」
遠くから呼びかけられ、シンは薄く目を開けて、重くなっている口をようやく動かした。耳元で溜息ような、忍び笑いのような息遣いを感じて、つられて、シンも笑う。
『おやすみ』
「……うん」
向こう側から、磨き上げられた光の粒を思わせるメロディーが溢れてくる。
泳いだ後の心地良い疲労感と、耳元で響く優しい音楽に身をゆだね、シンは再び目を閉じた。

久しぶりに、家族の夢を見た。
朝、光の溢れるダイニングに、忙しそうな母さんの足音が響いている。父さんは、朝早くに仕事へ出ていて不在。先に食卓についてパンを齧っていたマユが、ぼさぼさ頭でぼんやりとした顔のままダイニングに入ってきた、まだ幼い「オレ」に向かって、母さんそっくりな口調で『おそい』と言って口を尖らせた。
シンはゆっくりと目を開け、ようやく見慣れた天井をぼんやりと眺めて、苦い息を吐く。
光に満ちた、とても幸せなはずの夢だったのに、目が覚めたとたんに、とても空しくて、悲しい色へと変わってしまった。夢の中の人たちは、もう、いないのだという現実が、夜の闇と共に圧し掛かってくる。
シンは、傍らに転がっていた受話器を取り、耳にあてた。
「──レイ」
涙声で、向こう側にいる彼の名前を呼んだ。
返ってきたものは、繋がっていないことを示す響きだけだった。




約半年間のマハムール基地駐留期間を終え、後続の部隊との引き継ぎを済ませてプラントへ戻る。
夕方、ようやくプラントへ到着し、シンは、軍本部のアスカ隊執務室へ入るよりも先に、バレル隊の執務室を覗いた。
「おい、レイ。ちょっと、カオ貸せよ──」
レイの姿を見つけ、入室許可も待たずに、大股でズカズカと入室したシンに怯んだバレル隊の面々は、慌てて立ち上がり、引き攣った表情でシンへ敬礼した。
「──…って、あれ……?オレ、今、ケンカ売ってる…っぽい……?」
「少なくとも、友好的な態度ではないな。お望みならば、いくらでも買ってやるが……。冗談はさておき、話は士官室で聞こう」
言いながら、レイは、執務室の奥の扉を顎で指し示した。
レイの後ろに続いて士官室へ入り、背後で扉が閉まるのを確認してから、彼を壁際へ追い詰めた。
「職務中だ、シン」
唇と唇が触れようとするその瞬間に、レイは、顔を寄せたシンの口元を掌で塞ぐ。
「わかってる」
口を押さえ付けられたシンは、くぐもった声で、返した。
「ならば、今すぐに離れろ」
「つれねぇの……」
レイの掌を舌先でくすぐり、反射的に手を引いた彼の顔を見て、シンは、にんまりと笑った。
「なあ、次は、いつ会える?」
顔を近付けたまま問うと、
「──今晩……来るか?……明日は、俺も、非番だから……」
レイは、ふいっと視線を逸らし、呟く。語尾が次第に小さくなり、視線を泳がせている彼の様子を眺めているうちに、意地悪をしてやりたい衝動が湧き上がってきて、シンは、彼に悟られないようにひっそりと唇の端っこを上げた。
「今日は無理」
シンは、レイの表情の変化を見逃さないよう、上目遣いでじっと見つめながら慎妙な口調で言った。
「そうか……」
レイは息を吐き、口の端を微かに歪めた。
「……なんて、嘘。今の顔、すっげぇ良かった──って、危ねぇ!」
シンは、顔面を目がけて飛んできたレイの拳を、頬に当たるぎりぎりのところで受け止めた。
「……悪かったよ。休み、合わせてくれてたんだな……ありがとう」
手を掴んだまま詫びると、
「……別に……礼を言われるほどの事では、ないだろう」
レイは目を逸らしたまま、吐き捨てるように言った。
「少し、遅くなるかも知れないけど、いい?」
「了解した」
レイは、掴まれていた手を振りほどき、シンの傍らをすり抜け、肩を怒らせて士官室を出て行く。
室内にひとり残されたシンは、彼の去り際に長い髪の隙間からちらりと見えた、赤く染まった耳の先っぽを思い出し、頬を緩めた。

溜め込んでいた報告書を纏め、軍本部への送信を完了させた時にはすでに、夜の9時をまわっていた。
「官舎に戻って、買い物して……着くのは11時くらい、か」
あくびと共に呟き、シンは大きく伸びをして、端末の電源を落とした。




両手に買い物袋を下げ、「バレル邸」の門の前に立つ。
「あいつとオレの給料……同じ、だよなぁ……」
シンは目を細めて、夜の闇に霞んで見える邸宅の影を、じいっと見つめた。
門の向こうに広がる広い庭──常夜灯に照らされた木々は、時折吹く人工の風を受けて、ざわりと音を立てて揺れ、その遥か先に、玄関灯とおぼしき光が小さく見える。
遠い昔、妹にせがまれて読んだお伽話に出てきた、お姫様が眠る城を蔽う蔓のような細工が施された、背丈をゆうに超える、黒いスチール製の門扉を押し開け、広い敷地内に足を踏み入れた。
石畳が敷かれた長いアプローチを通り抜け、玄関のベルを鳴らす。
『開いている』
返ってきた愛想のない声が妙におかしくて、シンは思わず吹き出した。
重厚な玄関の扉を開けると、シンプルな普段着を身に纏ったレイが扉の傍らに立っていた。
「来たか」
言って、レイは微かに笑う。また、初めて見る顔だ──シンもつられて笑い、促されるままに家の中へ入った。シンは持っていた買い物袋を床に置き、手を伸ばしてレイの腕を掴み、そっと引き寄せると、彼の身体は何の抵抗もなくシンの腕の中におさまった。
「レイ……」
彼を抱く腕に力を込め、柔らかな髪に頬を擦り寄せる。
「……おかえり」
レイは、シンの肩に触れ、耳元で囁く。
「ただいま」
シンは答えて、ほんの少しだけ身体を離し、お互いの額を触れ合わせる。鼻のあたまをくっつけて、温かい吐息を感じながら、顔を傾け、唇を重ねた。
最初は、触れるだけのキスを──離れていた間、ずっと求めてやまなかった柔らかな感触を十分に味わった後、レイの反応を窺いながら、徐々に深く舌を差し入れていく。
「…んっ……」
レイの鼻から、甘い声が抜ける。
頭の奥のほうがかあっと熱くなり、レイの身体を更に強く抱いて、縺れ合う舌を、もっと深く、貪るように絡みつけた。レイは、シンの肩に触れていた手を少しずつ上へずらし、首の後ろへ回して、襟髪を指でかき回す。
唇の隙間から潤んだ音を洩らしながら、シンは、レイの背中を掌でゆっくりと撫で、腰から脇腹へ手を滑らせていく。ジーンズの布越しに、レイの熱を探るような手付きで下腹部に触れると、レイは絡めていた舌を解き、シンの下の唇に軽く噛みついた。
「こんなところで、サカるな」
シンの胸を押して身体を離し、レイは、濡れた唇を指でそっと拭う。
「……ごめん」
シンは頭のうしろを掻きながら詫びて、まだ柔らかい感触が残る唇をぺろりと舐めた。
「これは?」
レイは身を屈め、シンの足元に置かれた買い物袋を持ち上げながら、問う。
「オールドグランダッドと、ソーダと、氷──ダッドソーダ、好きだろ?」
「ああ」
「それから、こっちはつまみと明日の朝飯。冷蔵庫の中、なんにも入ってないだろうなと思って」
「すまない……」
シンは、脱いだ靴を、無造作に床に転がっている軍のブーツの横に置き、レイの後に続いて、あたたかな色調のタイルの上を裸足で歩く。家の中でまで靴を履くのは窮屈で嫌いなのだと、前にレイは言った。それを聞いた時、意外だと感じた。同室だった頃、彼は、部屋の中でも、常にキッチリとした格好をしていたからだ。
スタンドライトの、橙色の淡い光が点々と灯る、広いリビングの真ん中に据えられたピアノは、つい今しがたまで音を奏でていたような、優しい気配を漂わせていた。
「ピアノ、弾いてたんだ。なあ、レイ……あれ弾いてくれよ。電話口で聴かせてくれた曲」
「お前、寝ていただろう?」
「聴いてたよ……途中まで……。最初に弾いてくれた曲、レイの雰囲気にぴったりで、結構、好きだった。あとは、夢の中で聞いた曲──」
レイの手から買い物袋を受け取り、ピアノの前に座るように促す。
「キッチン、借りるよ」
言って、リビングと一繋がりになっているキッチンへ入り、冷蔵庫を開けた。
「やっぱり、水しか入ってねえ」
溜息まじりに呟いて、明日の朝食用に買った、サンドウィッチが入った紙袋を冷蔵庫のど真ん中に置き、扉を閉めた。
「えー……グラスと氷入れるやつと、かき混ぜるやつ……」
呟きながらキッチンハッチの扉を開けていく。
「そこじゃない」
後からキッチンに入ってきたレイは、グラスを2つと、アイスベールとトング、マドラーを銀色のトレーの上に手際良く載せた。
「サンキュ。じゃあ、先に、酒つくっててくれよ。オレ、つまみを皿に盛るから」
言いながら、シンは、オールドグランダッドとソーダの瓶をトレーに追加し、細かく砕かれた氷が詰まった袋の封を切ってアイスベールに移し替え、残りを冷凍室に突っ込んだ。
「わかった」
レイは、重みを増した銀色のトレーを慎重に抱え、キッチンを出た。足元までの大きな窓の傍に据えられている、向かい合った6人掛けのソファと、その間に置かれたローテーブルの上に散らばっていた楽譜を片手で器用に片付けて、トレーをテーブルの上に載せた。
シンは、キッチンからその様子をちらりと見ながら、広めの皿にクラッカーを並べ、チーズの蓋を開ける。
「……ナイフ」
傍らの引き出しを開けると、中で、何か硬いものが倒れたような音がした。
(……薬?)
シンは眉をひそめて、カプセルがぎっしりと詰まったプラスチックのケースをそっと摘まみ上げた。
首を傾げ、それを元の場所にしまい、ナイフを探す。
チーズは、あの日、バーで出されたものと同じものを選んだ。マハムール基地の傍にある酒場で同じ物を出されて、レイがとても気に入っていたのを思い出し、まだ酔いが浅いうちに、マスターにパッケージを見せて貰っていたのだ。名前を聞いただけではすぐに忘れてしまうから、この方法は、正解だった。
シンは、切り分けたチーズを皿に並べて、カウンター越しにレイに手渡した。
ナイフを洗って元の場所にしまい、ジーンズの腿で手を拭きながらリビングへ戻る。レイの対面に座り、ソーダの泡が涼しそうに弾けているグラスを手に取って、レイのグラスの淵にそれを軽く当てた。
「薄ッ……」
グラスの中の液体を口に含んだ瞬間に、シンは呟く。
「また、記憶を飛ばされたら困るからな」
レイは微かに笑い、チーズに手を伸ばしてクラッカーの上にのせ、一口、齧る。
「旨い?」
「ああ……あそこの店の物と同じか」
「そ。地上で、同じ物を出してくれた店があって、レイが旨そうに食ってたのを思い出してさ、マスターに教えてもらったんだ」
「そうか……。それは、嬉しいな」
「良かった」
シンは笑って、チーズとクラッカーを一気に口へ放り込み、咀嚼して、薄い酒で流し込んだ。

グラスを空けたレイは、ゆっくりと立ち上がり、ピアノの前に座る。シンも、手にグラスを持ったまま、彼に続いて立ち上がった。
「俺のものも、持って来てくれ。……酒は、グラスに半分で──」
「はいはい」
シンは、レイのグラスに氷を足し、トパーズに似た色の酒をグラスに半分ほど注いでソーダで割った。
炭酸を飛ばしすぎないように軽く混ぜ、両手にグラスを持ち、レイの傍へ歩み寄る。
手を伸ばしてグラスを受け取ったレイは、喉を潤した後に背もたれのない椅子を引き、彼の背後に一人分のスペースを作るように、端の方へ座り直した。
「座れ──お前はグラスを持って、そこで待機」
「了解」
レイからグラスを受け取り、シンは、彼の後ろの僅かなスペースに腰を下ろし、背中を預けた。
「──リクエストは?」
レイは手を慣らすように、低い音からいちばん高い音を響かせる鍵盤まで、指を滑らせる。
「この前、最初に弾いてくれた曲」
「わかった」
背後から響く、低く、深い音が、柔らかな橙色の光が灯る室内に広がっていく。
「その曲、何?」
「タイトルか?」
「うん」
「熱情」
「そういうの、似合うな」
「そうか?」
「レイって……クールに見えるけど、内には何か熱いもの秘めてるんだろうなって……時々、そう思う」
「なぜ、そう思う?」
「なんとなく……勘…?」
シンは、自分のグラスを空け、レイのものに口を付けた。甘い芳香が鼻を抜け、口の中と喉が焼けるように熱くなり、シンは噎せて、小さく二度、咳をした。
触れ合った背中から、レイの息遣いが伝わってくる。彼が無心に奏でる楽曲は、徐々に、クライマックスへ向けて走り始めた。同じ速さで昂ぶっていく彼の気配を感じながら、シンはそっと目を閉じる。
甘い蜂蜜色の空間に、最後の一音が溶けていく。
鍵盤から手を離したレイは、シンの背中に寄り掛かり、ひとつ息を吐いた。
シンは薄く目を開けてグラスを差し出すと、レイは身を捩ってそれを受け取り、喉を鳴らして残った酒を飲み干した。
「レイ……あれ、弾いて」
シンは、レイの手からグラスを回収して、ふたりぶんの空いたそれを椅子の足元に置いた。
「"あれ"?」
「うん。"あれ"」
「お前、酔っているのか?……お前が何を望んでいるのか、よくわからないが……片っぱしから弾いていけば、いつかは当たる……か」
レイは溜息をつき、ゆるやかな、心地良い響きの楽曲を奏でる。シンは、レイの背中にもたれたまま、重くなっていく瞼を、抗うことなく素直に閉じた。ピアノの音色が、長旅と残業で疲れた身体を、優しく包み込んでゆく。
ふいに、目の前が、懐かしい光で満たされた。
「なぁ、レイ」
「ん?」
「その曲……なに?」
シンは、目を閉じたまま、ぼんやりとした口調で問うた。
「夜想曲第2番」
「そっか。……オレ、その曲……聴きたかったんだ。このまえも弾いてくれたやつ、だろ?……夢の中で、聞いた……」
「ああ、弾いたな。……シン?……眠ったのか?器用な奴だな」
笑いを滲ませたレイの声を遠くで聞きながら、シンは、再び、あの懐かしい光景の中にいた。
ダイニングに立つ「オレ」は、最初から、これは夢だという事を理解していて、ぽろぽろと涙を零す。
それに気付いたマユは、丸い目をさらに大きく見開いて、椅子から降り、「オレ」の手を軽く引いた。
目を閉じて、小さな身体を抱き締めるように身を屈めた「オレ」の頭は、マユのものにしては大きな手の感触に包まれた。
苦くて湿った息を吐きながらそっと目を開けると、床に膝を付き、心配そうに顔を覗き込むレイの青い瞳と視線が重なった。
「どうした?嫌な夢でも見たのか?」
レイは、小指の先でシンの濡れた睫毛に触れる。
「いや……幸せな夢、だったよ。……でも、夢の中でしか会えないんだって思ったら……ちょっと、泣けてきた……」
「そうか」
下から手を伸ばしたレイは、夢の中でマユがしたのと同じように、シンの優しく頭を撫でた。
「レイ……レイは、どこにも行かないよな」
シンは、レイの髪の毛先を摘まんで口元に寄せた。
「……。寝呆けているのか?お前は」
「たぶん」
レイは、背中を丸めているシンの身体をそっと抱く。レイの首筋に顔を埋めて身体の力を抜くと、厚みのある肩に支えられ、今は寄り掛かっていてもいいと言われているような気がして、また、涙が零れた。
「俺には、お前を抱きしめることくらいしか出来ないが……一人ぽっちよりは、ましだろう?」
「うん……」
頷いて、レイの首筋に頬を擦り寄せ、嗚咽を漏らす。
レイのぬくもりに包まれて、シンは、少しずつ呼吸を整えていった。
「抱いてやろうか?」
レイが耳元で囁く。
「え?……なんで?」
「何となく──今は、"抱く"よりも"抱かれたい"気分ではないかと思った、から」
「……うん。そうかも……しれない」
シンの答えを聞き、レイは、吹き出すように笑った。
「──冗談、だからな」
レイは、シンを抱いていた腕を解き、身体を離した。
「え?……何だよ、せっかくその気になったのに」
「言ってはみたが、いきなりは無理だ。お前、痛いのは嫌だと言っていただろう?」
「いいよ、それでも。……大丈夫。……お前となら、たぶん、大丈夫」
「何を根拠に……」
レイは苦笑いを浮かべて、シンの濡れた頬を掌で包み込むように拭った。
シンはゆっくりと顔を近付けて、鼻先を触れ合わせ、舌の先でレイの唇をつつく。
レイの唇が僅かに開き、隙間から覗いた赤い舌先がシンのものに触れる。舌の先だけを絡め合い、ふたり同時に、小さく息を吐いて笑った。
「……いいのか?」
「うん……いいよ」
シンが言い終えてから、レイはゆっくりと立ち上がり、手を差し出した。シンはその手を取り、レイと共にベッドルームへ向かう。
ベッドルームの扉を開けると、庭で灯る青白い常夜灯の光がレースのカーテンから零れて、室内は、お互いの表情を確認するのに十分な明るさだった。
「なあ、レイ……」
「何だ?」
「夜想曲……明日も弾いてくれないか?」
「ああ、構わない……だが、また、泣いてくれるなよ」
「大丈夫……レイが傍にいてくれるから──じゃあ、オレ……シャワー浴びてくる」
「ああ」
「なにか、やっておかなきゃいけないこと、ある?……例えば、指が入るようにしておいた方がいい、とか……」
「無いな。敢えて言うなら、心の準備くらいだろう」
「……うん」
握っていた手を離し、ベッドルームから、専用のシャワールームへの扉を開けた。
服を脱ぎ、身体の隅々まで、いつもにも増して丁寧に洗う。熱めの湯で、ボディソープの泡を流しながら、恐る恐る、後ろの腔に触れた。
「入る…のか?……本当に……?」
後悔しているわけではないけれど、やはり、怖い。
途中で気持ちが揺らぎ、やっぱり止めたいと言ったなら、レイはどんな顔をするだろう?……傷つけてしまうだろうか?
シンは深い溜息をつき、シャワーを止めて、緩慢な動作で濡れた身体を拭いた。湿ったタオルをランドリー籠へ投げ入れ、新しいバスタオルを腰に巻く。ベッドルームへの扉をゆっくりと開くと、ベッドの端に腰を下ろしているレイと視線がぶつかったような気がして、心臓が跳ねた。
ひたひたと冷たい床の上を歩き、こちらへ視線を向けたまま、ぼんやりと何かを考えているレイの前に立つ。
「大丈夫か?」
優しく訊かれて、シンは小さく頷いた。レイは安心したような笑みを浮かべて立ち上がり、シャワールームへ向かった。
広いベッドの真ん中に横たわり、枕に顔を埋めると、よく知っている匂いが鼻先を掠めた。
「大丈夫だ……」
レイはきっと優しくしてくれる──シンは、ブランケットを鼻先まで引き上げ、かすかに残るレイの匂いを嗅ぎながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
シャワールームから洩れ聞こえる水音が、妙に大きく響く。意識を逸らそうとしても、耳が勝手に、レイの動きを探るように音を掻き集める。
シンは、ぎゅっと目を閉じ、ブランケットの端を強く握った。

【つづく】


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