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朝、温めた食事をトレーにのせてレイの部屋へ運び、机の上に置く。夕方、家に帰った後に、手を付けていない状態で残されたトレーをキッチンへ戻し、容器に詰め替えて冷凍庫に入れ、保存する。夜に、今日こそは食わせてやると、皿とスプーンを持ったままレイの傍らで粘るけれど、結局、ベッドの上で膝を抱き、顔を伏せて、固く縮こまったままの彼に根負けしてしまい、机の上にトレーを置いて、部屋を出る。
毎日、同じことを繰り返しているうちに、冷凍庫に眠っている、一口も食べて貰えなかったシチューのストックが、少しずつ増えていった。
何をしていても、どこにいても、レイのことが気になって仕方がない。
シンは、ベンダーにコインを入れて、コーヒーの釦を押した。狭い取り出し口に手を突っ込み、冷えた缶を乱暴な手付きで取り出す。
「ずいぶん、追い詰められた顔をしてるわね」
隣のベンダーで買い物を済ませたルナマリアが、こちらを見て、微かに笑う。
「たった四日しか経ってないのに……そんなに酷いカオしてる?」
「少しだけ……レイは、まだ塞ぎこんでいるのね」
シンは、ルナマリアの言葉に小さく頷き、傍らのベンチに腰を下ろして、缶の蓋を開けた。ルナマリアは、シンの前に立ったまま、缶に口を付けて喉を潤す。
「レイ、さ……メシを食わないんだ。無理矢理にでも食わせようとしたけど、顔を上げてくれない。それで……時々、声を荒げてしまいそうになる。オレ……最悪だ」
呟いて、シンは、甘みの少ないコーヒーを胃の中へ流し込む。濃い液体が溜まった部分に、妙な重苦しさを感じて、軽く腹をさすった。
「でも、薬は飲んでいるみたいだから……生きるのを諦めている訳ではないんだろうけど……」
「薬?」
「えっ?あ……ああ、えーっと……病院で貰った薬。火傷の……かな?……ほら、バイキン…とか、入ったらやばい、だろ?」
慌てて取り繕うシンの様子を見て、ルナマリアは首を傾げたが、すぐに、何かを思い出したような表情で顔を上げ、壁掛けの時計に視線を向けた。
「あ、もう行かなくちゃ。……私に出来ることがあったら、いつでも言ってね。本当は、シン達の家に行って、手伝いたいけど……今は、レイが自力で立ち直るのを待つしかないのよね……」
「うん……」
「シンも、思い詰めちゃだめよ。はっきり言って、あまり強くないんだから」
「そうかな?」
「そうよ。だから、無理しないで」
そう言ったルナマリアは、顔を傾けて、明るい笑顔をこちらに向けた。
「ん……」
シンは頷き、彼女につられて微かに笑った。
ルナマリアの背中を見送りながら、唇の端にそっと触れる。退院したレイと生活を共にするようになってから、まったく笑っていないことに気付いたシンは、薄く開いた唇の隙間から細く息を吐いた。
「ただいま」
口の中で呟いて、自室へ入り、ベッドの上に軍服を脱ぎ捨てた。長袖のTシャツとハーフパンツに着替え、レイの部屋の前に立つ。
「レイ、入るよ」
声を掛け、ドアを開けた。レイは、朝に見た姿のまま、固く縮こまっている。手つかずのシチューを乗せたトレーを回収し、シンは、無言のまま部屋を出た。
しんと静まり返った廊下を歩き、突き当たりのドアを開けて、照明のスイッチに手探りで触れる。リビングとダイニングとキッチンがひと繋がりになっている広い空間が、妙に寒々しい。
キッチンに入ったシンは、先ほど回収してきた皿を電子レンジに入れ、温めなおした。
「──熱っ」
舌打ちをしながら、熱を持った皿を慎重に取り出し、四人掛けの小さなダイニングテーブルの椅子を引き、腰を下ろした。テレビのない静かな部屋に、皿とスプーンのぶつかり合う冷たい音だけが響く。シンは、味気ない食事を、無理矢理、胃の中へ流し込んだ。
空にした皿をシンクに置き、冷凍庫の中から、一人分の量のシチューを詰めた容器を取り出し、電子レンジの中へ入れた。温まった中身を深皿に移してトレーに乗せ、レイの部屋へ向かう。
「レイ、今日こそ食ってもらうぞ。これ以上何も食わなかったら、本当に体を壊してしまうからな」
低い声で呟いたシンは、トレーを左手で持ち、右手でレイの腕を掴んだ。
「おい。顔、上げろよ──レイッ!」
語気を強めて、彼の腕を力一杯引いたその瞬間に、シンの手を振り払おうと動いたレイの腕がトレーに当たり、「あっ」と声を上げる間もなく、床に落ちた。皿の割れる鋭い響きが、耳の奥を突き刺す。かあっと頭に血が昇り、レイへ向けて振り上げた拳を、シンはようやく、己の太腿に叩きつけた。
キッチンへ戻り、雑巾を手にして、再び、レイの部屋へ入る。床にこぼれたシチューを丁寧に拭き取り、皿の破片を拾って、トレーに乗せた。腹の奥から湧き上がってくる熱くて苦いものが息を震わせ、眼底を焦がす。
「もう……勝手にしろよ」
吐き捨てるように言い、シンはトレーを抱えて、大股で部屋を出ていく。ドアの傍らで立ち止まり、ちらりとレイを見た。シンの手を振り払った腕をベッドの上に力なく投げ出したまま、小さく丸まって、すべてのものを拒絶しているレイの姿を一瞥し、シンは、音が鳴るほど強く奥歯を噛みしめ、力一杯ドアを蹴った。大きな音と共にドアが閉まり、周囲の薄い壁をびりびりと震わせた。
腹の中で渦巻く、どす黒いものを逃がすように、浅く息を吐きながらキッチンへ入り、抱えていたトレーをシンクの中へ叩きつける。トレーの下敷きになった皿が砕けて、飛び散った音の棘が鼓膜に刺さり、抜けない。
「──くそっ」
シンは、血が滲むほど強く唇を噛み、キッチンベースの扉を思い切り蹴り上げた。
午前二時。隣の部屋から断続的に聞こえてくる、乾いた咳で目を覚ました。
(……知るもんか)
シンはブランケットの中へ潜りこみ、身体を丸めた。咳はしだいに激しくなっていく。なにか、重たいものが床に落下したような気配を察知し、耳をそばだてた。壁の向こうから、喘息の発作のような、気管支を抜ける風の音が漏れ聞こえて、シンは跳ね起き、レイの部屋へ走った。
「レイ!どうした?」
乱暴にドアを開け、手探りで照明を点ける。シンは、ベッドの下で蹲るレイの傍へ駆け寄り、背中をさすった。
「薬──薬は?……まさか、もう、ないのか?」
肩を揺さぶるシンを遠ざけようとしたレイは、息苦しさに喘ぎながら、腕を大きく振り回した。
「──っ!」
レイの肘が頬に当たり、身体が後ろへよろめく。傍らにあったゴミ箱を巻き込みながら、シンは、床に尻餅をついた。
「痛って……ぇ」
口の端と内側の粘膜が切れ、口内に血の味が広がっていく。蹲り、胸を押さえて荒い息を吐き出しているレイを睨みつけ、シンは、ゆっくりと身体を起こした。一緒に倒れてしまったゴミ箱に手を伸ばして起こしかけたその時、底の方で固い音が鳴った。まさか──ゴミ箱をひっくり返したシンは、落下したピルケースを強く掴み、その手を床に叩きつけた。
「……なんで?」
ずっと堪えていたものが溢れて、視界を滲ませていく。
「議長と艦長が命懸けで守ってくれた身体なのに……なんでこんなことするんだ!」
叫びながら、蹲るレイの身体を力ずくで起こし、彼の頬を思いきり引っ叩いた。無抵抗のまま吹き飛ばされたレイは床に倒れ込み、激しく肩を上下させながら、縋るように、堅い床を爪で引っ掻く。
「死にたい……のか?……本当に……」
掠れた声で呟いたシンは、軽くなってしまった彼の身体を抱えて、仰向けに寝かせた。レイの傍らに膝をつき、薄く開いた青い目を見つめて、叩かれて赤くなった彼の頬を、まだ痺れの残る掌でそっと撫でる。
「大切な人を失って、それでも生きていかなきゃならないなんて、キツイよな……」
零れ落ちそうになる涙を手の甲で拭い、呟く。
「オレがいない時に、死のうと思えば、死ねたはずなのに……レイは『生きたがり』だったから、自分ではやれなかったんだろ?……どんな命でも、生きられるのなら生きたい──あれは、自分のことでもあったんだよな」
握りしめていたピルケースをレイの胸に置き、小刻みに震える彼の手を掴んで、その上に乗せた。
「……もう、いいのか?」
レイの瞳を真っすぐに見つめて問うと、彼は、息苦しさに顔を歪めながら小さく頷いた。
「そっか。……自分でやれないなら……オレが、終わらせてやるよ」
言いながら、シンは、レイの身体を跨いで馬乗りになり、首に手を掛ける。
「……すぐに、追いかけるから……」
レイの微かな脈動が、手の中にある。大切な友達が死んでいく感覚を受け止めて、泣き叫びながら自身をも殺す。これが、戦争だったとはいえ、数多の命を奪った者にふさわしい末路なのかもしれない。
「……だめ…だ。お前…は……」
レイの喉から、ひゅるひゅると音を立てて風が抜けた。
「レイを死なせて、オレだけが生きていけるワケないだろ?……重過ぎて、背負えないよ」
呟いて、シンは微かに笑う。
「……すぐに、終わるから……」
シンは、レイの首を包みこんだ両手に力を入れて、少しずつ、身体の重さをそちらへ移していく。
躊躇うな──シンは、きつく唇を噛みしめた。躊躇ってしまったら、レイを、長く苦しめることになる。
顎を上へ向け、喘ぐように呼吸しようとするレイの顔を、シンは食い入るように見つめた。力をこめた手の中にある強い脈動──シンは、掌で、彼の命の叫びを聞いた。身体はこんなにも生きたいと訴えているのに……。強く噛んだ唇の隙間から、嗚咽が漏れる。溢れ出た涙がレイの頬にぽたぽたと零れ落ち、薄く目を開けたレイは、震える指先で、シンの手の甲を軽く引っ掻いた。
「……シン。……薬…飲む……。水、を……」
レイは呻き声と共に、ようやく言葉を吐き出す。
「水……」
手の力を弛め、激しく咳込むレイをその場に残して、シンは走ってキッチンへ向かった。
グラスに水を汲んで部屋へ戻り、床に横たわるレイの首の下に腕を差し入れて、抱き起こす。
「何錠?」
グラスを床に置き、手が震えているレイの代わりに薬を取り出して舌の上に乗せてやり、グラスの縁を彼の下唇に当てた。グラスを慎重に傾けて、水を口に含ませる。時折、噎せながら、中の水をすべて飲み干したレイは、シンの首に両腕を回し、首筋に顔を埋めた。シンは、空になったグラスを足元に置き、縋り付くレイの身体を抱いて、背中をさする。
「横になった方がいいよな?」
シンは、レイの脇の下と膝の後ろに腕を入れ、「よっ」という掛け声と共に彼の身体を抱き上げて、ベッドに横たえた。足元に丸まっていたブランケットをレイの身体に掛け、照明を落とそうと、彼に背中を向けたその時、
「──シ、ン」
呼ばれて、シンは振り返る。「どうした?」と、問うように顔を傾けると、
「……今は…ここ、に……いて、欲しい」
レイは、荒い息を整えながら、声を絞り出した。
「うん。ドアを閉めて、電気を消してくるだけだよ。出てけって言われても、傍にいるつもりだったから、大丈夫。どこへも行かない」
シンは、こわばった頬をほんの少しだけ弛めて、ドアの方を指差す。レイは、乾いた咳をしながら、小さく頷いた。
ドアを閉め、照明を落として、ベッドに横たわるレイの方へ向き直った。ベッドの向こうの窓に下がるカーテンの隙間から、青白い光が零れている。シンは、レイを踏まないようにベッドの上に膝をつき、手前のカーテンを引いた。奥の、薄いレースのカーテン越しに、窓から差しこむ月の明かりが、室内の輪郭をぼんやりと浮き立たせる。
シンは、ベッドの端に腰を下ろし、人工の、ほの青い光の中に横たわるレイの身体の膨らみに視線を這わせた。うつ伏せに寝て、枕に顔を埋め、まだ苦しそうに、荒く呼吸しているレイの背中を、ブランケット越しに優しく撫でさする。
しばらくして、レイは深く息を吐き、強張っていた身体を弛緩させた。薬が効いてきたのだろう。
シンは、レイの柔らかい髪を撫で、そっと首筋に触れる。レイのぬくもりと、生きている証を探り当て、すっかり落ち着いた彼の呼吸を聞きながら、震える手で口を塞いで咽び泣いた。溢れ出る熱い雫が掌に溜まり、腕を伝い落ちて、上着の袖とハーフパンツの太腿を濡らしていく。
「レイ……」
シンは両手で顔を覆い、背中を丸めて、かちかちと鳴る奥歯をぐっと噛みしめた。
【つづく】
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