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Albireo ③


「シン……そこに、いるのか?」
深い吐息と共に覚醒したレイは、手を伸ばし、ベッドの端に腰を下ろしたシンの太腿に触れた。
「……いるよ」
 シンは答えて、まだ震えが止まらない手を、彼のものにそっと重ねる。
「手の震えが、止まらないんだ。……さっきから、ずっと……」
 涙を滲ませた声で、シンは呟く。
「オレ、レイを殺そうとした……」
「気に病むな。お前を追いつめてしまったのは、俺だ。お前は、何も悪くない……悪くないんだ、シン」
 レイは、小刻みに震えているシンの手を、手首を返し、下から強く握り返す。
「シン。顔を、見せてくれ」
 レイは、シンの太腿に乗せた手を支えにして、まだ自由に動かすことの出来ない身体を慎重に起こし、シンの鼻先に顔を近付け、眉根を寄せた。
「……目が、真っ赤だ」
「赤い目は、生まれつきだよ」
「そういう意味じゃない」
「……わかってる」
「頬も、酷く腫れている。……すまなかった……本当に」
 レイは、シンの肩に額を乗せて、詫びる。シンは口元に微かな笑みを浮かべて、顔を小さく横に振った。
「いいんだ。オレは、大丈夫。……明日、ルナに、レイに殴られたって報告しなきゃ」
「……そんなことをしたら、ルナマリアに、要らない心配を掛けてしまう」
「大丈夫。きっとルナは、喜んでくれる──殴り合いが出来るくらい、レイが元気になった、って」
 シンは、レイに掴まれていない方の手を彼の背中へ回して、痩せてしまった身体を強く抱きしめ、柔らかなプラチナブロンドに頬を擦り寄せる。
「本当はここに来たいけど、今は何も出来ることがないから、レイが立ち直るまで待ってるって言ってた。……ルナも、心配してるんだぞ」
「そうか……それは、すまないことをした……」
 涙声で呟いたレイは、シンに寄り掛かったまま、細く息を吐いた。

しばらくの沈黙の後、レイは何かを決意したように顔を上げた。薄く開かれた口から漏れる吐息が震えている。こちらへ真っすぐに向けられた瞳が躊躇うように揺れ、潤んでいくそれを隠すように、彼は再び、目を伏せた。
「何か、話したいこと……あるのか?」
 俯くレイの髪を優しく撫で、シンは問いかける。
掴まれていた手に力がこもり、シンは、レイの手を同じ強さで握り返した。
「俺は……議長を撃ってしまった」
 レイは、今にも泣き出しそうな声で呟く。
「──え?」
 シンは眉をひそめて、レイに触れていた手を離し、項垂れた彼の顔を覗きこむ。
「どう、して……?」
 レイの肩に触れて、ようやく声を絞り出すと、彼は力なく顔を横に振り、唇の隙間から嗚咽を漏らした。
「……俺は……俺は、議長が望む、誰も争うことのない世界を作り上げる手助けをして…死んでいければ良いと思っていた。それが、俺の望みでもある、と……それなのに……」
 レイの頬を流れ、顎を伝い落ちた熱い雫が、繋いだ手を濡らす。
「キラ・ヤマトと対峙して……彼が発した、たった一言で……今まで、心の奥底に沈めていた闇が、俺の前に現われて……一気に、飲み込まれてしまった。……撃破されて、それでも……議長を守るためにメサイアへ向かったはずなのに……頭が真っ白になって……俺は、衝動的に引き金を──」
 レイがまばたきをするたびに、大粒の涙が零れる。シンは、強いと信じて疑わなかったレイが、脆く泣き崩れる姿を目の当たりにして、動揺する気持ちを、ようやく胸の奥に押し込め、彼の顔を真っすぐに見つめた。
「──お前には、訳の分からない話だな。……すまない」
 震える声で言って、レイは呼吸を整えようと、はあっ、と大きく息を吐いた。
「いいよ、ワケ分からなくても。もう、いいから……抱えてたもの、全部吐き出しちゃえよ。心は軽くならないかもしれないけど、気持ちの整理はつくと思うんだ」
 言いながら、シンはレイの頭のうしろに触れ、そっと抱き寄せる。レイは抗うことなくシンの肩に頬を寄せ、繋いでいない方の手で、上着の裾をぎゅっと握った。
「……ずっと……心に引っ掛かっていたことがあった」
「なに?」
「ヤキンドゥーエで、俺と同じ痛みを知るひとが死んだ時、議長は、俺に言った。……『──だが、君もラウだ』と。……その時、俺は……俺は、あの人の代わりなのだと…そう、思ってしまった。彼のように、強く在らなくてはならない……ラウのように──ラウ…に……ならな…ければ……」
 声を詰まらせてすすり泣くレイの形の良い頭を、シンは黙ったまま優しく撫でる。
「言って、欲しかった。……本当は…ギルに……他の誰でもない……俺は俺だと……言って……。勝手に、絶望して……俺は……俺を育て、導いてくれた人に、なんて、酷いことを……」
 レイは、くぅ、と小さく喉を鳴らして、嗚咽を噛み殺す。
「それでも……議長は、レイを守ってくれた」
 レイの目から止めどなく零れ落ちる温かな雫が、シンの肩をしっとりと濡らしていく。
「意識を失くしていて、知らなかったかもしれないけど、レイの身体は、議長と艦長に守られていたんだ。オレも見たから、間違いないよ」
 シンは、繋いでいた手を解き、小刻みに震えているレイの背中に回して、撫でさすった。
「……かすかに、憶えている。爆発の音が近付いてきて、床が大きく揺れた。艦長が、俺を庇うように抱きしめてくれて……大きな爆発が来ると覚悟した瞬間に、議長が俺達の盾になるのを、艦長の肩越しに見た……それは、俺が都合良く……勝手に作り上げた幻なのだと思っていた……」
 ごめんなさい──レイはしゃくり上げながら、何度も、何度も詫びる。
 レイの濡れた頬に顔を寄せ、髪と背中を優しく撫でていくうちに、少しずつ、彼は落ち着きを取り戻していった。
「とりあえず、横になろうか。……泣き疲れたら、そのまま寝ちゃえばいい」
 シンは、唇の端っこを上げ、明るめの声色で言って、レイの背中を軽く叩く。
 レイは、シンの上着の裾を握ったまま、手の甲で目元を擦り、小さく頷いた。身体を離そうとすると、彼に掴まれている裾が伸び、シンを繋ぎ止める。離す気配のない彼の手を眺めながら、子供みたいだ、と、シンは彼に悟られないようにひっそりと笑った。
 人差し指の先でその手を軽くつつくと、レイは慌てて、繋ぎ止めていたシンを解放し、目を伏せて、ばつが悪そうに口元を歪めた。
 壁際に身体を寄せたレイが、手前に作ってくれた身体の半分のスペースに潜りこみ、狭いベッドの上で、寄り添うように横たわる。
「そういえば、ずっと同じ部屋だったけど、こんなふうに、一緒に寝るのって初めてだな」
「……そうだな」
 枕に顔を半分だけ埋めたレイは、涙声で答えて、小さく頷く。
「なんだか、変な気分だ」
 呟いて、シンは、レイの額に顔を寄せ、目を閉じた。
レイは、他人の知らないところで、ずいぶんと無理をしていたんだな──シンは、そっと溜息をつく。
レイが、彼の『正体』を話してくれた時には、こんな葛藤があったなんて、微塵も感じさせなかった。生まれた時から背負わされていた運命を、すべて受け入れて、達観しているような声色と態度に驚いたけれど……本当は、違った。レイは、ずっと、泣いていたのだ。どう足掻いても変えることの出来ない重い宿命を抱えて、彼の中の、彼自身さえも気付かないほど深い場所で、たったひとりで、ひっそりと──。
「なぜ、泣いている?」
 目頭に、レイの指先が触れる。
「もらい泣き……した」
 シンは薄く目を開けて、垂れてくる鼻水を啜り上げ、微かに笑った。
「レイは、オレが守るから」
 言うと、
「俺は、お前に守ってもらうほど弱くはない」
 レイは、シンを軽く睨み、低い声で呟いた。
「確かに、オレより強いもんな。……戦争中、オレが弱ってる時に、レイはオレを支えてくれた。だから、レイが弱ってる時は、オレがお前を守る。これから先、ずっと、オレもレイも一人じゃないって、言いたかったんだ」
「……だが、俺にはあまり、時間が……」
「ちゃんとわかってるよ。でも今は、レイが無事だったことだけを喜びたいんだ。……停戦したのに……いくら待ってもレイは戻ってこなかった。オレは、戦後処理の混乱に乗じて……今は、剥奪されたけど……フェイスの権限を振りかざして、メサイアの調査隊へ強引に潜り込んだんだ。……司令室で、議長と艦長とレイを見つけた時には、オレ……頭をぶん殴られたみたいにクラクラして……レイだけだったけど、生きてるって確認した時、嬉しかった…すごく。……だから、今は、それ以上は言わないでくれよ」
 シンは手を伸ばし、レイの頬に張りついた髪を梳き上げて、後ろへ流す。レイは頷き、まばたきをするたびに零れ落ちる涙を、手の甲で、乱暴に拭い去った。
「涙、止まらないな。タオル持ってこようか?」
 レイは、上体を起こそうとするシンの肘を掴み、顔を横に振った。行かないで欲しいと縋りつかれているようで、シンは、思わず、顔を綻ばせた。
「レイは、本当は泣き虫だったんだな。全然、気付かなかった……けど、夜が明けたら『いつもの』レイに戻るよなぁ……あーあ、惜しいなぁ」
 からかうように言ったシンを一瞥したレイは、拗ねたように顔をそむけ、寝返りをうって、シンに背中を向けた。
 シンは、背後から、彼の温もりをしっかりと抱きしめて、目を閉じた。目頭から熱い雫が零れ落ち、枕を濡らす。
シンは、彼に悟られないよう、薄く開いた唇の隙間から、こみ上げてくる苦い息をそっと解放し、レイの肩に顔を埋めて、彼の匂いを鼻腔に満たした。



 夜明け前、ふと目を開けると、腕の中にいたはずのレイの姿はなかった。
「──レイ?」
 彼が眠っていた場所を探ると、まだ、ほんのりと、温もりが残っている。
 シンはゆっくりと起き上がり、部屋を出た。廊下の突き当たりのドアを開けると、ダイニングテーブルの上に据えた情報端末の前に、目を真っ赤に腫らしたレイが座っていた。
「おはよう……眠れなかったのか?」
「いや。完全に、目が覚めてしまっただけだ」
 レイはぎこちなく笑い、キーボードを叩く手を止めて、こちらへ顔を向ける。シンは、レイの傍らに立ち、手を伸ばして、薄い色の睫毛についた水滴を、指先で掬い取った。
「また、泣いた?」
「少し、な」
「なんで?」
「……メールボックスに、メッセージが届いていた……議長から、俺宛てのメッセージを託されていた人がいたらしい。メールには、議長が亡くなったら、代わりに、俺に送信するように言われていたと書いてあった」
 レイは、潤んだ目を伏せて、細く息を吐いた。
「議長は、なんて?」
「……生きろ、と……」
「そっか……」
 シンは頷いて、シンクの方をちらりと見た。水を滴らせたグラスが、水切りに伏せられている。その傍らのビニル袋の中身は、おそらく、昨夜、シンクの中に投げつけた食器の破片だろう。
「グラスと、割れた食器……片付けてくれたのか。……ごめん……ありがとう」
「いや……。悪かったのは俺だ。謝らないでくれ」
 レイは顔を横に振り、呟く。
「お前が起きたなら、少し、部屋に籠りたい。報告書と、連絡を取らなければならない場所がある」
「ああ。でも……あまり、根を詰めるなよ」
「分かっている」
「腹減ったら、冷凍庫の中に食えそうなものがあるから……」
 頷き、電源を落とした情報端末を小脇に抱えて、部屋へ向かうレイを追いかけるように、シンも、自室へ戻った。
 身支度を済ませて、レイの部屋の前に立ち、軽くドアを叩く。短い返事の後にドアが開き、隙間から覗いたレイの顔を見たシンは、安堵の溜息を漏らした。まだ、完全に元通りという訳にはいかないけれど、もう、心配する必要はない。
「行ってくるよ」
「……気をつけて」
 背後にレイの気配を感じながら、シンは、玄関のドアを開けた。
 ドアから手を離すその瞬間に振り返り、レイを見る。ドアの傍らに立ち、面映ゆそうに笑って軽く右手を上げるレイに、シンは微笑みを返して、ドアを閉めた。

 それから三日間、レイは部屋に籠もり、作業を続けた。ほとんど顔を合わせないことは、以前と変わらなかったけれど、ベッドの上に置かれた、きれいに畳んである洗濯物や、シンクの脇の水切りに伏せられた食器を見て、シンは胸の前で拳を握り、「よし!」と、小さな歓喜の声を上げる。
「明日、買い出しに行かなきゃな」
 空っぽになった冷凍庫を眺めながら、シンは、にんまりと笑った。

 買い物袋を提げたまま、玄関のドアを開けると、部屋の奥から押し寄せてきた旨そうな匂いに、空っぽの胃がきゅっと縮んだ。晩飯の匂いに出迎えられたのは、オーブにいたとき以来だ──シンは足早に廊下を歩き、突き当たりのドアを開けた。
「お帰り」
 フライパンとフライ返しを握ったレイがこちらへ顔を向けた。
「た……ただいま。何やってんだ?」
「料理、だが」
「ええ…っと。これは、ハンバーグ……だよな」
皿に盛り付けられた黒い物体を見て、頬を引き攣らせながら問いかけると、レイは大真面目な表情で頷いた。
「着替えてこい」
「うん」(……匂いは良かったんだけどなぁ)
 シンは首を傾げながら、持っていた買い物袋をレイに預けて、自室へ向かった。
 着替えを済ませてダイニングへ戻り、レイの対面の椅子を引き、腰を下ろして、ハンバーグらしき物体と対峙する。
「い、いただきます」
 正面から、レイの鋭い視線を感じながら、シンは、恐る恐る、皿の上の『物体X』にフォークを突き刺し、口へ入れた。
「……う…ぐ。……すっげぇ固いけど、旨いよ。……うん、旨い……」
「無理は、するな」
「いや、ホントに……見た目はアレだけど、味はいいよ」
「それは、褒めているのか?」
「もちろん!」
 大袈裟に頷くと、レイは眉根を寄せて、「次は見てろよ」と、小さく呟いた。
 黙々と『物体X』を口へ運ぶレイをちらりと見ながら、そういえば、アカデミーやミネルバの食堂のような賑やかな場所以外で、二人きりで食事をするのは初めてだということに気が付いた。再び、同じ時間を共有し、これから先、新たな『初めて』を積み上げていくことが出来る喜びが、じんわりと胸の中に広がっていく。
「俺の顔に、何か付いているか?」
 強い光を放つ空色の瞳をこちらへ向けられて、シンは笑いながら、顔を小さく横に振った。
「また、レイと飯を食うことができて、嬉しいなって思ってた」
 言うと、レイも微かに笑い、頷いた。
「ああ、そうだ。軍服を、クリーニングに出してくれていたのだな。ありがとう」
「ん……。レイがいつでも復帰できるようにな。ズボラなオレにしては、上出来だろ?」
「お前が、こんなに面倒見の良い奴だとは思っていなかったから、正直、驚いた」
「意外?……オレ、一応、『お兄ちゃん』だったんだけどな」
「そうだったな。……今朝、報告書を提出して、軍へ復帰する意向も伝えた。あとは、出頭命令が下るのを待つだけだ」
「え?……その件は、あの人が……」
「お前は、ちゃんと責任を果たしたのだろう?
俺だけが、逃げる訳にはいかない」
「大丈夫か?」
「心配するな」
「うん」
「それから……もしも、ここに戻ってくることが出来たなら、その後、三日ほど留守にする」
「なんで?」
「俺に、議長からのメッセージを代理送信してくれた人の所へ行ってくる。その人は、かつて、議長の助手をしていた人で、今は遺伝子欠陥の治療法を研究している……水面下で、俺が飲んでいる薬を作ってくれていた。薬の受け取りと、少し、治療を受けたい。……議長と艦長が守ってくれたこの身体を、少しでも長く持たせたいから……」
 言って、レイは、しだいに潤んでいく瞳を隠すように伏せて、今にも泣き出しそうに口元を歪めた。
「わかった。オレ、ここで、レイが帰るのを待ってる」
「ありがとう」
 目尻に浮かんだ涙の粒を素早く拭い、レイは視線を上げて、シンの顔をじっと見た。「なに?」と、問うように首を傾げると、
「また、同じ部屋で生活する日が来るなんて、思ってもみなかった」
 レイは目を細めて、笑った。
「じゃあ……あらためて、よろしく」
 握っていたフォークを皿の上に置き、レイへ手を差し出す。
「こちらこそ」
 言いながら、レイは、その手を強く掴んだ。シンは、レイの力以上の強さで、彼の手を握り返す。挑発されて、レイの口の端が僅かに上がった。
「う……っ」
更に強い力で手を握られて、指の付け根が鈍く鳴り、シンは顔を顰める。
「シン……」
「なに?」
「痛い」
「オレも」
「離せ」
「やだ」
「なぜ?」
「負けるのは嫌だから」
「馬鹿か」
「お互い様だろ?」
しばらくの間、不毛な攻防戦を繰り広げた後、視線を合わせ、ふたり、ほとんど同時に吹き出すように笑った。


了【Vanilla(2008/9/28 out)寄稿】


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