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(……まだ、きれいな姿で残っていたんだな)
眼下に広がる珊瑚礁をゴーグル越しに眺めたシンは、僅かに頬を緩めた。
所々に墜とされた機体の残骸が残ってはいるものの、海の深くに横たわる世界は、この洋上で渦巻いた戦火がまるで夢であったかのような、穏やかな表情をこちらへ向けている。この美しい場所にそぐわない残骸も、時を経て朽ち果て、いずれ、魚たちの住処となるのだろう。
肺に溜めた息を少しずつ吐きながら、ヒレを付けた足でゆるりと水を蹴ると、重力から解き放たれた体が、ほんの僅かな力で、ぐんと前進する。自分と、眼下を泳いでいる、南国特有のカラフルな魚たちとが同じものであるかのような錯覚に身を委ねながら、シンの胸をよぎった、ある既視感─遠い昔に、誰かと、同じ風景を見たことがある……かも知れない。シンは、故郷を発つ直前の鮮烈な記憶に上塗りされた、色褪せて、失われかけている記憶の断片に、慎重に手を伸ばした。
──誰と?
確か、同じ年くらいの男の子で、プラントからの旅行者だと言っていた。
──名前は?
聞くのを忘れていた。
──顔は?
良く憶えていない。けれど、陽の光の粒をきらきらと反射させていた薄い金色の髪と、良く晴れた空と同じ色の瞳だけは、妙に、印象に残っている。
海中で息を吐ききったシンは、水面を目がけて体を浮上させた。海面に顔を出したその瞬間に、かつて、ここで出会った少年の大まかな輪郭が、酸素が足りずにぼんやりとしたあたまの中で霧散してしまい、シンは内心に舌打ちをした。
ゴーグルを外して、遠く、岸の方を振り返る。長期滞在のために背伸びして借りたコンドミニアムからプライベートビーチを望むテラスに、レイの姿があった。彼は、目に眩しいオレンジ色のパラソルの下で、ビーチ・チェアーに腰を下ろし、バカンスに来てまでも小難しい本を読み耽る。
良く晴れた空を見上げ、目を細めながら、再びゴーグルを装着して、シンは岸へ向かう。浅瀬で足ヒレとゴーグルを外し、砂浜を駈けて、レイの傍へ向かった。読書に夢中になっていたレイは、駆け寄ってくるシンの気配を察知して顔を上げ、膝の上に開いていた分厚い本を閉じ、ビーチ・チェアーの背もたれと彼の背中の間にそれを避難させた。
シンは、レイのすぐ傍に立ち、水浴びをした後の大型犬よろしく頭と体を激しく振り、容易に逃げ出すことが出来ない彼に水飛沫を浴びせかける。シンが近付いてくることに気付いたその瞬間から、レイの眉間に寄っていた皺が更に深さを増し、レイは、怒りと呆れの入り混じった溜息をついた。
「レイも、泳がないか?懐かしい場所が、まだ、きれいな姿で残っていたんだ」
「……懐かしい?」
すっと細めた目をこちらへ向けるレイに笑みを返し、シンは、彼へ手を差し伸べる。
「ここがリゾート開発される前、オレ達の遊び場所だったって言ったろ?沖に、珊瑚礁のきれいな場所があるんだ。せっかくだから、レイにも見せたい」
言うと、レイは目を伏せて、顔を小さく横に振った。
「怖い?……大丈夫だよ、オレがついてる。浮き輪だってあるし、せっかくオーブまで来たんだから、一度は海に浸かっておけよ」
小脇に抱えていた足ヒレをビーチ・チェアーの脚元に置き、レイの腕を掴んで強引に引っ張ると、彼は強張っていた頬を少しだけ緩め、
「……そうだな。着替えてこよう」
そう呟いて、ビーチ・チェアーの肘掛けに立て掛けていた杖を握り、慎重に立ち上がった。
自由に動かない左脚の代わりに、握った杖を支えにして、テラスからリビングへ向かうレイの左側に回ると、同じ高さの肩に、彼の手がそっと触れる。シンは唇の端っこを微かに上げて、レイが歩くのと同じ速さで足を進めた。
メサイアから瀕死の状態で発見された時、崩落した瓦礫に押し潰されてしまっていたレイの左脚。以前のように、自由に動かせるようになることは、二度とないだろう。医師によって、その現実を突き付けられた瞬間にも、彼は眉ひとつ動かさなかった。
『オレがレイの足になる』
普段と変わらない横顔を見つめながらそう伝えた時、『その必要はない』と、無表情で言い放ったレイがようやく許してくれた、「甘え」──冷えた肩に乗せられた手の温もりが、なんだか、妙にこそばゆい。
リビングのソファにレイを座らせて、シンは、ベッドルームのクローゼットに押し込んでいたマリンショップの袋を取り出した。リビングへ戻り、水着とゴーグルのタグを切って、それらをレイへ手渡すと、
「派手過ぎるだろう……」
鮮やかな青と紫で描かれたハイビスカスのような図柄を目にしたレイが眉根を寄せて、ひとりごちる。
「そう?……じゃ、オレのと交換する?」
マリンショップの袋から取り出した大きな浮き輪に、フットポンプで空気を送り込みながら言葉を返すと、シンが身に着けている水着の、手の中にあるものと似たり寄ったりの珍妙な図柄を凝視したレイは、
「……これでいい」
と呟いて、Tシャツとハーフパンツを脱ぎ捨てた。色白な背中と、無防備に晒け出されたお尻が視界に入り、シンは思わず目を逸らす。
(バッカじゃねぇの、オレ。……自分と同じモノだろ。同じモノに心臓バクバクさせて、どうするんだ……)
心臓が耳元に移動してきたみたいに、やけにうるさく鳴る鼓動。それを振り払うように頭を揺らし、フットポンプを踏むリズムを早めた。背後から聞こえてくる衣擦れの音が、あたまの中に、大きく響く。アカデミーで出会ってからずっと、同じ部屋で生活してきたけれど、レイの存在を、こんな風に、変に意識したことなど、断じて、なかった。
やっぱり、『あの日』から、何かがおかしい。
シンは、ぱんぱんに膨らませた浮き輪の固さを確かめながら、ひとつ溜息をついた。
あの日──
崩壊したメサイアから瀕死の姿で救出され、昏睡状態だったレイが七日ぶりに目を覚ました、あの日。ベッドに横たわるレイの両腕がこちらへ伸び、彼と再び言葉を交わすことが出来る喜びに打ち震えていたシンの背中に絡み付いた。
「……ごめんなさい」
怪我人とは思えない程の強い力で抱き締められ、涙混じりの声と熱く湿った吐息が耳朶を掠めて、生ぬるい雫が首筋を濡らす。強い人間だと信じて疑わなかったレイの、弱々しく震える声に心臓が大きく跳ね、背中にしがみついてくる体を、シンは、彼のそれよりも大きな力で抱き返した。
ごめんなさい──そう繰り返しながら泣きじゃくるレイの背中を、シンは戸惑いつつも、子供をあやすように撫でさすりながら、今までに彼に対して抱いたことのない感情が、腹の底の深い部分から沸き上がってくるのを感じていた。それは、かつて、ステラやルナマリアに向けていたものと良く似ているような気がした。
駆けつけた医療スタッフによってすぐに鎮静剤が打たれ、少しずつ力が抜けていく彼の体を、シンは抱き締め続けた。
「レイはオレが守るから」
彼の耳元で、馬鹿みたいにそう繰り返しながら。
その後、再び目を覚ましたレイは、しがみついて泣きじゃくっていたことなど、憶えてはいないようだった。
ごめんなさい──この言葉を、自分に言っているのではないということは、直感的にわかっていた。しかし、レイが、誰に向けて詫びていたのか、自分の向こう側に誰を見ていたのか、皆目見当がつかなかった。
戦後処理が一段落つき、一人で過ごすには長過ぎる休暇を与えられた。塞ぎこみがちなレイのリハビリを兼ねて、退院に合わせてバカンスを計画し、ほとんど無理矢理、彼をオーブまで連れ出した。
本当は、どこか別の南の国へ行くつもりだった。けれど、知らない土地で戸惑い、体を自由に動かすことが出来ないレイに不便な思いをさせるよりも、ある程度、勝手が分かっていた方がいいと思ったから、旅行先をオーブに決めた。
オーブに滞在して、四日。レイは、日がな一日、波の音を聞きながらテラスで読書に耽り、シンは海に潜る。アカデミーの寮やミネルバで過ごしていたのと同じように、互いに干渉し過ぎることなく、穏やかな共同生活を送っていた。
【つづく】
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