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ギルバートに引き取られる少し前の話──
空港の自動扉を抜けて建物の外へ出ると、湿り気を帯びた、重くて熱い風が肌に纏わりついてきた。
忙しいラウにくっついて出張先を転々とする生活も、この国で最後になる。
前の赴任地は、モスクワだった。極寒の冬から一転して、今度は真夏のオーブ──気温、湿度、天候に至るまで、全てが調整されているプラントとは違う、地球の多種多様な【季節】に触れた幼いレイは、初めて降り立った国への期待に小さな胸を膨らませて、ラウの顔を見上げた。
「行こうか」
「はいっ。ラウ」
ラウの大きな歩幅に遅れを取るまいと、レイは、彼の手をしっかりと握り、小走り気味に前へ進む。
タクシーに乗り込み、海沿いの広い道を走っている間、レイは車窓にへばりつき、後ろへ流れていく景色をずっと眺めていた。プラントを出発する前、レイは、ギルバートの家の書庫に籠もって、地球に関する本を読みあさり、ラウとともに向かう街について予習をしていた。本に載っていた海の写真と、目の前に広がる光景とを重ね合わせる。本物は想像していたものよりも広くて、大きくて、きらきらしていた。
ホテルへのチェックインを済ませ、部屋に入る。
「──わぁ……っ」
歓声を上げたレイは、海側を向いている大きな窓に駆け寄り、背伸びして、べったりとへばりついた。走っていたタクシーよりも遙かに高い場所から見下ろす海。太陽の光の粒をきらきらと反射させ、くるくると表情を変えながら打ち寄せては引いていく波を、レイはじっと見つめていた。
「気に入ったかい?」
頭上から、ラウの優しい声が降り注ぐ。
「はいっ!」
レイは、ラウの顔を振り仰ぎ、彼へ満面の笑みを向けた。
靴を脱いだレイは、ラウが窓際へ寄せてくれた椅子の足下にそれをきちんと並べ、座面に上がり、柔らかなクッションの上に膝立ちになって、窓枠に頬杖をつく。
「私は、これから、人に会わなければならない。夕方までには戻るから、それまで、一人で留守番出来るかい?」
ラウの大きな手が、レイの柔らかな髪をそっと撫でる。
「はい。出来ます」
レイは、ほんの少しだけ近くなったラウの顔を見上げて返事をし、きゅっと顔を引き締めた。
「良い子だ。……長旅で疲れただろう。ゆっくり休んでいなさい」
椅子から降りて見送ろうとするレイを手で制し、ラウは軽く右手を挙げて部屋の外に出た。
広い部屋にひとり残されたレイは、閉まったドアに背中を向けて、穏やかに凪いでいる海へ視線を戻す。本物の海を初めて見たはずなのに、ずっと昔から知っているような、不思議な気持ちが胸を満たしていく。
前に読んだ絵本に書かれていた、この世界のすべての命の始まりの場所が海だという一文を思い出した。太古の昔から受け継がれてきた「記憶」が、見たことがなかったはずの光景に懐かしさを呼び起こさせるのだろうか。ぼんやりと考えを巡らせながら、レイは、夕方の色に染まった空と、水平線の向こうに消えていく赤い光に目を細めた。
翌朝。
ゆうべ、ラウが買ってきてくれた水着とサンダル、麦わら帽子を身に付けたレイは、顔を真っ赤にしながら、小さな浮き輪に息を吹き込んでいた。
「昼までには用事が済むから、レイも、昼のサイレンが鳴ったら、部屋へ戻って来なさい」
ぱんぱんに膨らませた浮き輪の固さを確かめながら、レイは、「はいっ」と元気よく返事をして、
「行ってきます!」
と言うのとほとんど同時に、部屋から駆け出した。
ホテルの前に広がる砂浜を走り、波打ち際に立つ。こちらへ寄せては引いていく波に、恐る恐る足を浸けた。足下を凝視すると、波の引き際に、砂に埋まった自分の足までもが沖へ連れ去られてしまうような錯覚に陥り、レイは、小さな悲鳴を上げて、後ずさりした。その後、何度か波に足を浸けてはみたけれど、最初に感じてしまった恐怖を払いのけることが出来なくて、海へ入ることを諦めたレイは、波打ち際にしゃがんで砂の山を作り始めた。
膝の高さほどに砂を盛り、圧し固めた山の裾にトンネルを掘っていく。はじめは手前から。中程まで掘り進めたら、今度は反対側に移動して砂を崩していく。もう少しで完成だと、ほっと気を抜いたその瞬間──突然吹いた強い風に、被っていた麦わら帽子が浚われてしまった。
「あっ!」
波間を転がり、遠くへ着水した麦わら帽子は、行ったり来たりを繰り返しながら、レイの手の届かない場所へとどんどん流されていく。
(どうしよう……)
レイもまた、波のリズムに合わせて、浅瀬で行ったり来たりを繰り返しながら、泣き出しそうになるのを必死にこらえていた。
ふいに、沖から戻ってきたらしい同じ年くらいの少年と目があった……ような気がした。ゴーグルをはめている彼の視線の先はよくわからなかったけれど、何となく、レイと麦わら帽子を交互に見ているように思えた。少年は、彼の腰のあたりを漂う麦わら帽子を拾い上げ、レイへ向かってそれを掲げる。レイは反射的にぺこりと頭を下げ、ほっと息を吐いた。
ばしゃばしゃと水しぶきを上げながらこちらへ歩み寄ってきた少年から帽子を受け取り、レイは俯きがちに、「……ありがとう」と呟いた。
「このへんの子じゃないよね?旅行で来たの?」
彼の問いかけに、レイは俯き、目を泳がせながら頷く。
「どこから来たの?」
答えなきゃと焦れば焦るほど、言葉が喉につかえて、正常な呼吸をも妨げる。今まで、ラウとギルバート以外の人間と話をしたことがなかったレイは、同年代の子供とどう接していいのかわからずに、軽いパニックを起こしていた。
「……プ…プラント……」
ようやく声を絞り出したレイは、ほっと小さく息を吐く。
「プラントって、宇宙の!?シャトルに乗って来たのか!?プラントにも海って、ある?」
少年の勢いに気圧されて、思わず上体を引いたレイは、彼の顔から視線を外したまま、
「……宇宙の、プラント。……シャトルに乗って、来た…けど、ここの前に、とても寒いところにいて……えっと……そこからは、飛行機で、来た。……それから…プラントに海は、ない……」
波に浚われてしまいそうなほどに小さな声で、彼からの問いかけひとつひとつに律儀に答えた。
「そっかー。寒いところって、どこにいたんだ?」
「……も…モスク、ワ……?」
「モスクワ?」
首をかしげる少年の顔を、レイは上目遣いに見上げて声を絞り出す。
「ここより、ずっと……ずーっと、北のほう。……こことは全然違って…雪に埋もれてた」
「雪!?」
少年の声が跳ねる。ゴーグルを外した彼の目には、好奇の色が滲んでいた。
「オーブには、雪……降らない……?」
きらきらと輝く瞳をこちらへ向けている少年に、恐る恐る問いかけると、
「降らないよ。サンタさんが、雪の降る夜にトナカイに乗ってやってくるって絵本、読んだことあるけど……アレ、ウソだと思ってたもん」
少年は、にいっと笑いながら答えた。
「オーブのサンタは、サーフボードに乗って、海から来るんだ」
沖を指さす少年の視線の向こうには、大人の体よりも長い板に立ち、寄せる波に乗る若者たちの姿があった。
「雪、きれいだった?」
少年からの問いかけに、レイは大きく頷き、
「……初めて見たけど……とても、きれいだった」
と、先ほどよりは少しだけ大きな声で言葉を返した。
「いいなー。……じゃあ、海も初めてなんだろ?いいもの見せてあげるよ」
少年は、レイの手の中の麦わら帽子を取り、それを、レイが作っていた砂山に被せ、代わりに、先ほどまで椅子のような使い方をしていた浮き輪を拾い上げた。
差し伸べられた少年の手を躊躇いがちに取り、ばしゃばしゃと水しぶきを上げながら沖へ向かう彼の後を小走りで追いかけた。沖の方へと流されていくような感覚がまだ恐ろしくて、背中の真ん中あたりがゾクゾクしたけれど、ひとりでいたときのような不安は、不思議と無かった。
「本当は、子供だけで行っちゃいけないって言われてるんだけど……すぐに帰るから」
呟いて、浮き輪にレイを掴まらせた少年は、ヒレを付けた足をゆっくりと動かして更に沖へ向かった。少しずつ小さくなっていく浜辺で遊ぶ人影を振り返ったレイの胸に、幾ばくかの不安がよぎる。知らない人間に簡単に心を許してはいけないと言うラウに知られたら、ひどく叱られてしまうかもしれない。でも──
見知らぬ自分に屈託の無い笑顔を向けてくれた彼が悪い人間だとは到底思えなかったし、何より、不安よりも、彼が見せてくれると言った「いいもの」に対する好奇心の方が勝ってしまっていたのだ。モスクワで初めて見た雪と同じくらい「いいもの」に対する期待と、初対面であるはずの少年への信頼は、海底に足が付かなくなっても怖さを感じないほどに高まっていた。
「これ着けて、海の中、見てよ」
レイは、少年から手渡されたゴーグルを慣れない手つきで装着し、大きく息を吸い、海の中へ顔を浸けた……つもりだった。「ぶふっ」と吹き出す声が聞こえて、恐る恐る目を開けると、
「鼻までしか浸かってないよ」
少年は大笑いしながら言い、レイの頭頂部を容赦なく押さえ込んで、顔を海へ沈めた。
(しんじゃう……!)
パニックに陥ったレイは、肺に溜めていた空気を口から一気に吐き出し、浮き輪と少年の腕にしがみつく。上から押さえ込まれていた圧力が消え、海面に顔を出したレイの顔は、ほとんど泣き顔になっていた。
「もう大丈夫。怖くない」
そう言ってにっかりと笑った少年は、大きく息を吸い、そのまま、海の中へ潜ってしまった。レイも、肺をぱんぱんに膨らませて、海面に顔を浸けた。ぎゅっと閉じた目を恐る恐る開き、海中に消えてしまった彼の姿を捜す。
自分の遙かに下の方──海の底に群生している珊瑚礁の上を、黄色い足ヒレを着けた少年が、色とりどりの魚たちと一緒に泳いでいる姿を見たレイは、海中で思わず歓喜の声を上げ、危うく溺れかけた。慌てて顔を上げ、浮き輪にしがみついて、激しく咳込む。塩辛い水を吐き出し、もう一度顔を浸け、海の底を魚みたいに泳いでいる彼の真似をして、両足をばたつかせた。
(すごい。すごい。すごい。すごい──)
眼下に広がる、写真で見るよりも圧倒的に美しい光景に目と心を奪われたレイは、何度も息継ぎを繰り返し、少年の後ろを追いかけた。
魚みたいに泳いでいた少年がくるりと体の向きを変え、海面へと浮上する。
「やっぱ、ゴーグルがないと目が痛ってぇー」
荒い息とともに言葉を吐き出した彼は、水浴びをした後の子犬よろしく頭を振り、浮き輪に掴まっているレイに水しぶきを浴びせかけた。彼はちらりとこちらへ視線を向け、浮き輪の真ん中の空洞に、両手で包み込むように運んできた小さな魚をそっと放流した。
「わ…っ。魚……」
彼の手の中にいた黄色い小さな魚は、浮き輪の空洞の中で五秒ほど泳ぎ回った後、鮮やかな色の体を翻し、元の群へと帰っていった。
「あんまり長くいると叱られちゃうから……帰ろっか?」
そう言いながら、少し寂しそうに笑う少年の顔を見つめたレイは、小さく頷く。
来たときと同じように、レイが掴まっている浮き輪を引っ張って岸へ向かう少年の加勢をするように、レイも、両足をばたつかせる。
「あの…っ」
借りていたゴーグルを外し、彼の頭の後ろに向かって恐る恐る声をかけると、振り返った彼は「なに?」と問うように顔をかたむけた。
「……いいもの、見せてくれて……ありがとう。すっごく…すごく、きれいだった」
レイは頬を紅潮させながら、彼の顔を真っ直ぐに見つめて、言った。
「ホント?よかったぁ」
少年はくるりと体の向きを変え、海面に背中を預けて照れたように笑い、人差し指で鼻の下を軽く擦る。岸に背中を向けたまま水を蹴る彼と、他愛ない会話を交わしながら、波打ち際で話しかけられた時には、正常な呼吸が妨げられるほどに喉に詰まり気味だった言葉が、今ではとてもスムーズに口からこぼれていることに、レイは内心に驚いていた。
レイは、臆病な自分を未知の世界へと連れ出してくれた感謝と、短い時間のなかで育まれた信頼を滲ませた目を少年へ向けた。
面映ゆそうに笑っている少年の瞳は、昨日ホテルの窓から見た夕方の太陽のようにきらきらしていた。
その後、己が生まれつき背負わされた運命を知り、ラウまでも失って、子供の頃の記憶など思い出すことさえなかったけれど……思い返してみれば、あの時、沖へ連れていってくれた少年は……おそらく──
長期滞在のためにシンが借りたコンドミニアムのテラスに出て、目に鮮やかなオレンジ色のビーチパラソルの下に据えたビーチ・チェアーに腰を降ろし、図書館で見つけた懐かしい絵本と図鑑をぱらぱらと捲る。 昔、ラウに連れられてオーブを訪れる前に「予習」と称して読んでいた、海の絵本とオーブ近海に生息する生き物の図鑑だ。
海底を覆いつくす雄大な珊瑚礁群と、その上を自由に泳ぎ回る南国特有の色鮮やかな魚たち。
体にまとわりつく重い風も、水の冷たさも塩辛さも何もない、この四角い紙に切り取られた世界が、俺にとってのオーブだった──あの少年に出会うまでは。
キュキュと、ビーチサンダルと濡れた素足が擦れ合う響きが近付いてくる。視線を上げたレイは、小さなゴムボートを引きずりながら、浜辺からこちらへ向かって駆けてくるシンの姿を確認し、借りてきた本をビーチ・チェアーと己の背中との間に避難させた。
抱えていた足ヒレとゴーグルをビーチパラソルの支柱の傍らに投げ置いたシンは、レイの傍らに立ち、風呂上がりの大型犬のように頭と体を震わせて、水しぶきを浴びせかける。毎度のことで慣れてしまってはいたが、レイは、怒りと呆れの入り混じった視線をシンへ向けた。けれど、彼は、そんな視線などお構いなしに、
「見ろよ。きれいだろ?」
そう言いながら、ビーチ・チェアーの足元に寄せたゴムボートを指さした。
ゴムボートの中央の窪みに視線を落とすと、水が張られた浅瀬の中で黄色と青色の魚が二匹、窮屈そうに泳いでいた。
「……魚だな」
見たままの事実を口にすると、シンは、
「エッ!?それだけ?」
と、頓狂な声を上げて、不服そうな視線をこちらへ向ける。それならば、と、
「後で、ちゃんと、海に帰してこいよ」
と言うと、彼は、
「わかってるってば!」
日に焼けて真っ赤になった頬をさらに紅潮させて地団太を踏んだ。
シンに気付かれないように、ふうっと細く息を吐いて笑い、
「綺麗だな」
と呟くと、先ほどまで不貞腐れていたシンの頬がみるみる緩み、
「だろー?」
彼は満面の笑顔で、誇らしそうに胸を張った。
その、わかりやすい反応が妙におかしくて、顔を背けてひとしきり笑った後、レイは、背後に隠しておいた絵本と図鑑を取り出して、膝に置いた。
「お前が海で遊んでいる間に、図書館へ行ってきた」
「そっか……。退屈なら、レイも海に入ればいいのに……」
「この足では、入れない」
「オレが、ちゃんとついてるから……大丈夫なんだけどな。……ホント、オレに頼る気なんてサラッサラないんだもんな、レイは……」
シンは大袈裟に溜息をつき、「着替えてくる」とこちらに聞かせるでもなく呟いて、ビーチサンダルをその場に脱ぎ捨ててリビングへと足を踏み入れた。
レイは細く息を吐き、ビーチ・チェアーの肘掛けに立てかけた杖へ視線を落とす。
終戦後、すぐに、崩壊したメサイアから救出された──ただひとりの生存者として……。
崩落した瓦礫に右足を挟まれていて、切断は免れたものの、もう二度と以前のように動かすことは出来ないと医師に告げられた時にも、すべてを失って空っぽになってしまった心が揺れ動くことはなかった。それよりも、なぜ一緒に死なせてくれなかったのかと、今まで想うことも、祈ることもなかった神とやらを恨んだ。
時折、病室に姿を見せるシンとまともに会話することもなく、心を閉ざしているうちに、いつしか、彼の足さえも遠のいていき、清々したという思いと同時に胸に滲んだ感情……あれは、寂しさだったのだろうか?
心をメサイアに置き去りにしたまま、何の目的も目標もない、リハビリだけの虚ろな日々が過ぎ去っていった。
退院の日。さて、これからどうしようかと、纏まらない考えを巡らせていると、大きな荷物を抱えたシンが、二ヶ月ぶりに姿を現した。最後に会った時の印象とは明らかに雰囲気が違う彼の様子に圧倒されながら、半ば無理矢理に車椅子に乗せられ、シャトル乗り場へ連れ去られた。
「どこへ行く気だ!?」
声を荒げると、彼は、「オーブ」とだけ答え、シャトルのシートに身を沈めて眠ってしまった。疲れ果てているような、普段とは違うシンの様子に圧倒されてしまったレイは、それ以上、彼を追求する気にはなれずに、深い溜息とともに、今まで電源を落とし放しだった情報端末を起動させた。
その後、メールボックスを膨れ上がらせた250通を越えるメール。それらを全て読むことによって、シンの、謎の行動の真意をようやく理解することが出来た。
病室に顔を出さなかった二ヶ月の間、戦後処理の任務のためにプラントを離れていたこと。無精者だと思い込んでいた彼から毎日のように届いていた近況報告。そして、任務を終えたら、塞ぎ込んでいる自分を無理矢理にでもバカンスへ連れ出すという馬鹿な計画も、全て──。
顔を上げたレイは、隣の席で眠るシンへちらりと視線を向けた。最後に見た時よりも確実に痩けている頬の、影。彼が必死になって前へ進もうとしていた時、俺は一体、何をしていた?──レイは、血が滲むほど唇を噛み、掌に爪が食い込むほど強く、拳を握り締めた。今までに感じたことのない、自分自身に対する怒りや苛立ちが腹の奥底からせり上がってきて、熱い雫となり、眼窩からこぼれ落ちたそれを、レイは誰にも気付かれないようにそっと指先で拭った。
コンドミニアムでの共同生活。アカデミーの寮とミネルバでずっと相部屋だったせいか、互いに適度な距離を保つ関係性が自然と出来上がっていて、シンと二人きりの生活は快適だった。
シンは、毎日、朝から夕方まで海で泳ぎ、レイは、一緒に海へ行こうと言うシンの誘いを謹んで辞退して、リビングやテラスで、日がな一日、読書に耽る。
未来のないこの身を憂い、己に与えられた短い時間に何が出来るだろうと焦り、ただがむしゃらに前へ進んできた。大切なものをすべて失い、絶望と孤独の中で立ち尽くしていた自分に残されたただ一つの存在の傍らで、残された僅かな時間を贖罪に捧げるのも悪くはないかもしれない──のんびりと流れる時間に身を委ねて、ようやく、そう思うことが出来るようになった。
シャワーを浴びて、Tシャツとハーフパンツに着替えたシンは、テラスに脱ぎ捨てていたサンダルの砂を払い、それを履く。手にしていた小さなバケツに、ゴムボートの窪みの中で泳ぐ魚たちを慎重に移し、ビーチ・チェアーの足元に置いた。
「それ、何の本?」
問われて、レイは、
「オーブ近海に生息する生き物の本だ」
答えながら、古ぼけた図鑑をぱらぱらと捲った。
「……あ」
不意に、忘れ物を思い出したかのような声を上げたシンの顔を覗き込み、どうした?と問うように首をかしげると、
「今、知ってる場所の写真があった」
答えた彼は、目を伏せて、ふいっと顔を背けた。
オーブに着いてから……いや、それ以前も、一度として、彼の口から昔の思い出が語られたことはない。幸せそうに笑っていたあの時の少年から笑顔を奪ったトラウマは、そう簡単に消えるものではないのだろう。かつて、臆病だった自分を海へ連れ出してくれたのはシンではなかったか?そのことを確認したいと思っていたけれど、遠い昔の出来事でさえ、つらい記憶をよみがえらせてしまう引き金となってしまうなら、今は、やめておこう。レイは小さく息を吐き、開いていた図鑑を閉じて、背中とビーチ・チェアーの背もたれとの間にそれを収めた。
夕方が近付くにつれて、重苦しかった熱風に、雨上がりに吹くような清々しい風と、胸を締め付けるほどに懐かしい匂いが混ざりはじめる。
ビーチ・チェアーの背もたれに深く身を委ねたレイは、無言のまま、次第に赤く染まっていく空を仰いだ。タイル張りのテラスに胡座をかいたシンが、バケツの中の魚たちと戯れる水の響きに耳をかたむけていると、かつて、あの少年から与えられた高揚感と良く似たものが、空っぽになっていたはずの胸にじんわりと滲み、広がっていくのを感じていた。
「散歩、行こっか」
シンの提案に、レイは小さく頷いて、魚が入ったバケツを持って立ち上がった彼の顔を振り仰ぐ。差し伸べられた手を素直に取り、ビーチ・チェアーの肘掛けに立てかけていた杖を握って、慎重に足を前へ進めた。支えにしていた手を離し、シンの数歩後ろを、ゆっくりとした足取りでついていく。
無言のまま、10分ほど歩いたところで、シンはこちらを振り返り、
「ちょっと、待ってて。魚を帰してくる」
そう言って、軽やかな足取りで岩場を飛び越えていった。
若く、しなやかで、死の影さえ微塵も感じさせない体が、ほんの少しだけ羨ましい──砂浜に取り残されたレイは、シンの後ろ姿を見つめながら、細く息を吐く。
「お待たせ。行こっか」
空っぽになったバケツを振り回しながら、シンが戻ってきた。こちらに背中を向けて、普段のシンのそれよりも遙かに小さな歩幅でちょこまかと歩く彼の、肩にそっと触れると、彼はちらりとこちらを見遣り、僅かに頬を緩めた。
「お前、肩と背中が真っ赤だったぞ。痛くないのか?」
日に焼けて真っ赤になった首の後ろへ視線を向けながら問いかけると、
「んー、全然。コーディネイターって、ホント、頑丈だよなぁ……ナチュラルだったら、ヤケドみたいになるのに……」
シンは柔らかな表情で答えて、声を上げて笑った。
「……俺も、明日、海へ入ってみるかな」
「ん!?」
「沖へ、連れていってくれるか?」
同じ高さにある、沈みかけた太陽と同じ色の瞳を真っ直ぐに捉えると、
「勿論!……じゃあ、あの図鑑に載ってた場所に連れてってやるよ」
そう言ったシンは、一瞬だけまん丸に見開いた目を嬉しそうに細めて、大きく頷いた。
こちらを気にしながら歩くシンの肩と杖を支えにして、夕焼け色に染まった海岸線をゆっくりと歩く。
少しずつでも前へ進めていれば、いつかは、かつてのような、幸せそうな笑顔を取り戻すことが出来るだろう。
だが……、俺は、それを見届けることが出来るだろうか?──レイは細く息を吐き、どうした?と聞きたそうな視線をこちらへ向けるシンの瞳を真っ直ぐに捉え、「何でもないさ」と呟いて、肩をそびやかし、笑ってみせた。
了[2009/9/1]
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