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Angel will come




 カーペンタリアに到着したシャトルの、狭い座席の間に出来た列に並び、緩やかな人の流れと歩調を合わせて、乗降口へ向かう。
乗降口と搭乗ゲートを結ぶブリッジへ出たその刹那に、真冬の、冴え冴えとした空気が、機内の暖かさに緩んでいた頬を突き刺し、レイは思わず、きゅっと奥歯を噛みしめた。
プラントでは、ほとんど体に感じることがなかったそれよりも、わずかに大きな負荷を跳ね除けるように背筋を伸ばし、久しぶりに袖を通した軍服の、長い裾を翻しながら、ゲートラウンジを足早に通り抜ける。到着ロビーへ続く長い通路、壁一面の分厚いガラス越しに外の景色を見遣り、レイは息を呑んだ。雪だ。
「──っ」
 知らぬ間に、歩く速度が落ちてしまっていたらしい。背後から、前方へ押し出されるような衝撃が加わり、レイは、咄嗟に前へ出した左足で、毛足が短い絨毯敷きの床を踏みしめ、バランスを崩しかけた体を支えた。
「失礼」
 頭上から降り注ぐ、低い声。
「こちらこそ、すみませんでした」
 レイは、声の主に会釈をして、白い軍服の裾を翻しながらこちらを追い越していった長身の男の背中を見送った。
 レイは、ガラスの方へ体を寄せ、外に広がっている白銀の世界を眺めながら、先ほどよりもゆっくりと歩く。人間が快適に暮らすことが出来る気温と湿度を保たれているプラントには、雪は降らない。しかし、レイは、雪を、見たことがあるはずだった。どこで見たのだろうか? と内心に問うても、確かな答えが見つからない。今、この身にあるものは、真っ白な世界に目を奪われて打ち震える胸と、その無垢なるものに触れてみたいという子供じみた欲求だけだった。
 あの日より以前の記憶が、丸められた紙くずのようにくしゃくしゃになって、頭の隅っこに転がっている。そうやって、犯してしまった罪から目を逸らそうとするおのれの弱さが、心の底から嫌になる。レイはそっと息を吐き、長い、長い通路の先を真っ直ぐに見据えた。

 崩壊したメサイアから助け出された後、半年近くにわたり、ザフト軍本部での事情聴取と、入退院を繰り返す日々を送っていた。体だけではなく、精神的な不調が続き、湧き上がってくる感情と衝動を制御することが出来ずに、鎮静剤の投与を受けたこともあった。錯乱していた。その間の記憶は、厳重に、固く丸められた紙くずの真ん中で、縮こまり、震えている。
誰にも見せたことがない、自分自身さえも知らなかった弱さと脆さを晒け出し、空っぽになったこの身に、カーペンタリア基地勤務の辞令が下りた。先に、ザフト軍へ復帰していたシンと、同じ部隊に所属することになる。官舎の、割り当てられた部屋も同じだ。今後は、彼が『監視役』となるのだろう。反乱分子の監視という意味合いではなく、自傷行為の防止。入院している間に片時も傍を離れなかった、精神科医と同じ役割だ。

 預けていた小さなトランクを受け取り、到着ゲートをくぐる。広い到着ロビーは、軍関係者と旅行客とが入り混じり、ごったがえしていた。
「レイ!」
 右斜め前方から、聞き覚えのある声が響く。首に、幾重にも巻いたマフラーに顎先を埋め、丸々と着膨れしたシンの姿を捉え、レイは、わずかに頬を緩めた。
 シンの傍らへ歩み寄り、開きかけた口を噤む。こちらへ向けられた赤い瞳が、昏く澱んでいる。かつて、瞳の奥に湛えていた負けん気と、行き場のない怒りは、すっかり、なりを潜めてしまっていた。彼もまた、抜け出すことが難しい暗闇の中に取り残されたままなのだろう。掛ける言葉が、見つからない。レイは、細く息を吐いた。
「荷物、それだけ?」
「…あ、ああ」
 突然声を掛けられて、レイは、びくりと肩を震わせ、頷く。シンは、唇をとがらせ、「ふうん」と小さく鼻を鳴らして、両手をポケットに突っこんだまま、先頭に立って歩き始めた。
 長いエスカレーターを降り、空港施設に直結されたリニアモーターカーのターミナルへ向かう。藍白色に塗られた五両編成のリニアモーターカーが、音もなくターミナルへ滑りこみ、停車する。呼吸するような響きとともにドアがスライドし、ふたりは無言で、軍施設方面行きのそれに乗り込んだ。
 車内は、程良く混雑していた。人いきれと暖房の熱にあてられて、額に汗が滲んでいく。二人は乗降口付近に立ち、揃って窓の方へ体を向けて、外の風景が尾を引いて後ろへ流れていくさまを、見るともなく眺めた。
 ザフト軍カーペンタリア基地より二つ手前の、居住区へ続くターミナルへ降り立つ。ターミナル出口の自動扉を抜けると、真っ白に染まったロータリーの向こう側、整然と並び建つ高層ビル群の隙間を吹き抜けた冷たい風と、舞い上がった粉雪が、火照った肌を掠めていく。うっすらと汗ばんでいた肌が冷え、レイは、ぶるりと身を震わせた。
「寒いだろ?」
 こちらへ視線を寄越したシンが、白い息を吐き出す。
「いや……」
 平静を装ったつもりだったが、噛み合わなくなった歯が音を立て、レイは、手のひらで口元を覆った。
 シンは、吹き出すように笑う。ぴっちりと閉じたマフラーの喉元を弛めたその瞬間に、彼の体がびくりと跳ねる。背後から驚かされて飛び上がったかのような身震いだった。
「悪いけど……これは、貸せそうにないよ」
 シンは体を小刻みに震わせながら、しばらく逡巡した後、申し訳なさそうな上目遣いでこちらを見遣り、呟いた。
「おまえの方が凍死しそうだから、借りられないな」
 答えると、シンは寒さに強ばらせていた頬を緩め、再び、マフラーをきっちりと巻き直した。
「行こうか」
 こちらへ向けられた、赤い瞳。ガラス玉のようだった瞳に、温かい光が差す。レイは小さく頷いて、先を歩く彼の足跡を追いかけた。


 官舎は、真新しい、高層マンションのように見えた。シン曰く、民間経営マンションの半分の家賃、二人部屋に至っては四分の一だから、もの凄い競争率なんだぞ、だそうだ。
 エレベーターで十一階へ上がり、ホテルのような長い廊下を歩く。一番端のドアを開けると、玄関先で渦を巻いていた、なにやらスパイシーな香りが鼻先をくすぐった。
「いらっしゃい……違うな。……お帰り……? うーん……もっと、違うような気がする」
 振り返ったシンは、独り言のようにそう言って、肩をそびやかす。暖房をつけたままだったのだろう。室内は、リニアモーターカーの中と同じくらい熱かった。
彼に続いて部屋へ入り、レイは、対面式の小さなキッチンセットと、ダイニングテーブル、ベッドと机が二つずつ設えられた縦長の空間を見渡した。バルコニーに面した大きな窓の向こうに、水平線が見える。それに吸い寄せられるように、部屋の奥へ歩を進めた。
使われている気配がない、窓際にある机の足許にトランクを置き、窓の外を眺める。重く垂れ籠めている雲の隙間から零れ落ちた雪が、海へ吸いこまれていく。灰色の空と、空の色を映し出している水平線の境界はぼやけていて、まるで、空と海とがひとつに繋がっているように見えた。
「全室オーシャンビューだってさ」
 後ろから、シンの、笑いを滲ませた声が聞こえてくる。
「まるで、ホテルの謳い文句だな」
 振り返ったレイは、ふん、と鼻を鳴らし、言葉を返す。シンのベッドの上には、脱ぎ捨てられたジャケットと、その下に着ていたと思われる衣類が、小さな山のように積み上げられていた。レイは、絶妙なバランスで山の形を保っている衣服の向こうを、ちらりと見遣る。キッチンに立っていたシンは、コンロに乗せた大きな鍋の中を覗きこみながら、「そうだな」と言って、笑った。
「カレー、か」
 シンの背後に立ち、彼の肩越しに、鍋の中を覗きこみながら呟く。
「うん。むかし食べた、母さんの味を思い出しながら作ったんだ。外で歓迎会をした方がいいのかなって思ったんだけど……まだ、外に出たり、人と会ったりするのが億劫で、さ。質素なディナーで悪いけど……」
「……俺も、今はお前以外の誰とも関わりたくない。だから……その方が、助かる」
 レイは声を洩らし、薄手の長袖Tシャツの襟元から伸びた細い首に目を落とした。薄いコットンに包まれた背中のラインを視線でなぞり、裾が緩やかに波打つウエストのあたりを、その細さを確かめるように両手でぐっと掴むと、彼は、「うひゃあ!」と悲鳴のような甲高い声を上げて、身を捩った。
「もー! なにすんだよ! 鍋の中にお玉が沈んじまっただろ! どうしてくれるんだよ、もー!」
 振り返ったシンは、顔を真っ赤にして牛のように啼き、地団駄を踏む。レイは、「すまなかった」と詫びて、両手で確かめた彼の体の厚さと、記憶の中にあるシルエットとを重ね合わせ、そっと息を吐いた。
「……痩せたな」
「これでも、太ったんだけどな……って、ここはもういいから、レイも着替えろよ」
 ぐずぐずしていたら、今度は、闘牛のように突進してこられそうだ。レイは、返事をする代わりに肩をそびやかし、シンの傍らを離れる。小さなトランクから引っ張り出した普段着に着替え、ベッドの上に脱いだ赤い軍服を、空いている方のクローゼットの中へ仕舞った。
 クローゼットの扉を閉め、キッチンに立つシンをちらりと見遣る。彼は、良い香りを漂わせているカレーの海の中から、わずかに頭を覗かせていた持ち手の先端をつまんで慎重に引き上げ、鍋に沈んでいたお玉のサルベージを成功させたようだ。
レイは頬を緩め、固いベッドの端に腰を下ろして、バルコニーへ続く大きな窓の向こうに広がっている景色を眺めた。灰色の、分厚い雲の隙間からこぼれ落ちた雪が、空と同じ色をした海の、波のうねりの中へ消えていく。ふいに強い風が吹き、煽られた雪がふわりと舞い踊る。雲が流れ、厚く重なり合っていた隙間から、一筋の光がこぼれた。色をなくした海へ真っすぐに降りた光は、飛沫を上げてうねる波を、やさしく包みこむ。
「天使のハシゴだ」
いつの間にか傍らに立っていたシンの声が、頭上から降り注ぐ。
「……昔、どこかで見たことがあるような気がするのだが……」
「─が? なに?」
「戦争中の……いや、それよりももっと前からの記憶が、少しだけ混乱しているんだ。実際に経験して得た知識なのか、それとも、本や映像で見知っているだけのものをすり替えているだけなのか。時々、その境界が曖昧になることがある」
「別に、どうだっていいよ。そんなの。レイが見たことあるって思うなら、どこかで、ちゃんと見てるんだ。きっと。……それに──」
これは、珍しい現象じゃない。アカデミーの頃とか、任務で地上へ降りたときとか、見る機会はいくらでもあった。シンは窓の外を見つめたまま、言葉を続けた。
 優しい男だ。心の底から、そう思う。かつて、弱さだと斬り捨てた彼の優しさ、甘さに、今は救われている。シンの横顔を見上げていたレイは、彼に悟られないように、そっと溜息をつく。
 再び、窓の外を風が流れ、低く垂れ籠めた雲がその形を変える。隙間から降り注ぐ光の束が、水平線を夕方の色に染めていく。
 レイは、傍らに立つシンのぬくもりを右肩に感じながら、波間を漂う光の粒の燦めきに、目を細めた。


 ***
 二人掛けの、小さなダイニングテーブルの上に並べられた質素なディナーを前にして、レイは、はじめて、自分が空腹であることに気がついた。体が食べ物を欲する感覚は、久しぶりだ。
 深皿にたっぷりと盛りつけられたカレーと、その傍らには白い飯、そして、いびつな形をした平焼きのパンが並べられている。
「これが、ナンというやつか?」
 レイは勧められるままに、ところどころ焦げたナンをちぎり、カレーにひたす。シンは、スパークリングワインのコルクを慎重に押し開けながら、「そうだよ」と答えた。破裂音を響かせてボトルの口から飛び出したコルクが、天井に当たり、レイの左頬を掠める。
「ご、ごめん……」
「……いや。大丈夫だ。気にするな」
 独り言のように呟いたレイは、咄嗟に動いた左手を開き、手のひらに収まったコルクを眺める。まだ、だ──諦めを抱いて、冷たく凍りついていた胸の奥底に、熱がともる。心臓の脈動とともに、それが、じわりと全身に広がっていくのを感じながら、レイは、一度強く握り締めたコルクを、そっとテーブルの端に置いた。
「どうした?」
 首をかしげるシンに、
「諦めながら生きていくのが、馬鹿馬鹿しくなった」
 と、レイは答え、頬を緩めた。この体は、まだ動くのに……。そう言葉を続けると、手にしたグラスをこちらへ寄越したシンの顔がこわばっていくのがわかった。最後の出撃の前に彼に告げた言葉は、彼の胸の中に濃い影を落としてしまっているのだろう。
「心配するな」
 レイは肩をそびやかし、差し出されたグラスを受け取った。背の低いオールドファッションドグラスの中で、蜂蜜色の酒が揺れる。湖面が波打つたびに、炭酸が弾ける涼やかな響きが、耳朶を掠めていく。レイは、グラスの縁に唇をつけ、甘みと酸味が程良い酒をゆっくりと飲み下した。
 グラスを深皿の傍らに置き、ちぎったナンをカレーに浸して口へ運ぶ。スパイスの辛みと、野菜の甘さとが複雑に絡み合い、今までに口にしたことがあるものよりも上品な、けれど、どこか懐かしさを感じさせる風味が口の中に広がった。
「これが、アスカ家の味か」
 言うと、シンは、スプーンを口へ運ぶ手を止めた。
「……母さんが作ってくれたカレーが、どんな味だったのか……本当は、よく、憶えていないんだ」
 彼は小さく首を横に振り、唇の端を笑みのかたちに歪める。
「だが、旨い。……とても、旨いな」
 今にも泣き出しそうな表情を浮かべたシンを、真っすぐにとらえてそう伝えると、彼は、「ありがとう」と風のような声を吐き出して、鼻水をすすり上げた。
 沈黙と、食器がぶつかり合うかすかな響きが、ダイニングテーブルの上に降り積もっていく。時折、互いの様子を確かめるように、視線を上げた。そのタイミングが、怖ろしいほどに合致する。
「……何回目?」
「五回目、だな」
シンとレイは顔を見合わせて、忍び笑いを洩らした。
ふたりの間に、再び、心地よい沈黙が降る。ラウとギルバート以外の人間と一緒にいて、居心地が良いと感じたのは、はじめてだった。


***
 目を開けると、部屋は、薄闇の底に沈んでいた。
腹を満たした後、シャワーを浴びて、ベッドに寝転がったところまでは憶えている。キッチンの片付けを済ませてシャワールームへ向かったシンの背中を見送り、ベッドの上で、薄いドアから洩れる水音を聞いているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだ。
 レイは、藍色の薄闇の中で目をしばたたかせる。カーテンを透過した青白い光が、家具の輪郭をぼんやりと浮き立たせている。レイは、まだ完全には覚醒していない体を、ゆっくりと身じろがせた。
 シンも、すでに、眠りについているのだろう。寝返りを打ったレイは、上体を起き上がらせた人影を視界の隅にとらえ、びくりと肩を震わせた。隣のベッドの端に腰を下ろしたシンが、薄闇の中で、じっとこちらを覗っていたのだ。
「嫌な夢でも、見たか?」
 上擦りそうになった声を咳払いでごまかして、レイは、努めて冷静に尋ねる。
「……そういうわけじゃ、ないんだ。えーと……なんていうか……。レイが、ちゃんと息をしてるか気になって、眠れなくなった」
 薄闇の向こうで、シンは深い溜息をつき、ばつが悪そうに頭の後ろを掻いた。
「心配するな。突然いなくなったりはしない」
 たぶん、と内心に呟いて、レイは、闇に溶けてしまいそうな彼の表情を凝視する。どうしたらいい? ベッドに横たわる気配さえ見せないシンを真っすぐにとらえたまま、レイは自問する。不安に押し潰されそうになっている人間を寝かしつける方法など、考えたことなどなかった。冷たいベッドの中で体を丸めて、ただひたすらに耐えることしか、知らない。
(……冷たいベッド、か……)
 しばらく逡巡したレイは、わずかに上体を起こし、使っていた枕をベッドの端に寄せた。
「来るか?」
 レイは、ブランケットの端を捲り、シンのかたちをした翳りに問いかける。
「……え?」
「同じベッドにいれば、生存確認のために、いちいち起き上がらずに済む」
「……うん」
 シンは小さく頷き、枕を抱えて、こちらへ歩み寄り、ベッドに膝をついた。マットレスが沈み、彼の重さが、少しずつ近づいてくるのがわかる。狭いシングルベッドの上で向かい合い、身を寄せ合うように横たわった。端から見たら、ずいぶんと奇妙な光景だろう。レイはぼんやりと考えを巡らせて、唇の端をかすかに歪めた。
 シンは、互いの枕の境目に頬を埋め、じっとこちらを凝視する。どうした、と問うように首をかしげると、
「……いつか、本当に、いなくなるんだよな……?」
 彼は、まるで内緒話をするように低く抑えた声を吐き出した。
「ああ。そうだな」
 彼の目を真っすぐにとらえて、レイは答える。
「……怖い?」
「……ああ。……怖いな……」
 素直に頷くと、シンはくしゃりと顔を歪め、きつく目を閉じた。唇が震え、薄く開いた隙間から熱く湿った吐息がこぼれる。
「なぜ、お前が泣く?」
 訊くと、
「レイが、泣かないから……」
 濡れた目をこちらへ向けたシンが、嗚咽混じりの声を洩らす。まばたきをするたびに、目からこぼれ落ちた雫が、ぱたぱたと枕を濡らした。
「泣いても、いいのか?」
「……いいよ」
「そうか……」
 レイは、ふうっと息を吐き、頬を緩める。
「なんで、笑ってるんだよ」
 思いきり鼻水をすすり上げ、シンは、こちらへ、ずいっと顔を寄せた─その刹那に、額に衝撃が走り、首の後ろがじんと痺れた。油断した。レイは内心に舌打ちをする。まさか、頭突きを食らわされるとは、考えもしなかった。
「泣けよ。……泣けったら、泣け!」
「また、今度な」
 互いの額と鼻先を寄せたまま、言葉をかわす。声を発するたびに、唇の表面がかすかに触れ合い、心地良い。その柔らかさに触れてみたいと思う自分は、少し、おかしいのかもしれない。レイはそっと息を吐き、わずかに顎を引いて、唇を遠ざける。
「最期まで、傍にいる」
 涙を滲ませたシンの言葉が、鼓膜を震わせる。レイは、息を呑んだ。ありがとう。声にならない風が、唇の隙間を吹き抜ける。たったひとり、孤独に包まれて逝くのだと思っていた。ずっと、ずっと。
 心臓が早鐘を打ち、息が震える。鼻の奥が、痛い。腹の奥から迫り上がってきた熱が、目の奥をちりちりと焦がし、瞳を濡らしていく雫がこぼれ落ちないよう慎重に、ゆっくりと二度まばたきをした。
 レイは、シンの顔を上目遣いに覗いながら、痩せた頬を手のひらで包みこむ。引いていた顎を上げ、己の唇を彼のそれにそっと寄せた。小さな水音を響かせながら、触れるだけのキスを繰り返す。
「その時が来たら……最期の瞬間まで、こうしていてくれないか……?」
 無理な願いだということは承知していたが、言わずにはおれなかった。
「……うん。わかった」
 唇を軽く触れ合わせたまま、シンは答える。
 ゆっくりとのしかかってくる、シンの体の重さを受け止めて、レイは、彼の首の後ろに手を回し、長く伸びた襟髪を指に絡めた。
 幼いキスを交わしながら、レイはゆっくりと目を閉じた。暗闇の中に、一筋の光が落ちてくる。
 天使の梯子だ。
 レイは、腕をいっぱいに伸ばし、体を包みこむぬくもりに縋りついた。








了[2011/2/11]

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