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軍服の釦を外しながらリビングへ入ると、かすかな花の香りが鼻先を掠めた。
スタンドライトの薄明りを頼りにリビングを見渡すと、ローテーブルの上に、白いユリが一輪、細い花瓶に活けられていた。
大きく開け放たれた窓から、夜の闇の濃い香りを纏った風が流れ込み、前髪を揺らす。ふいに、かすかな鼻歌が聞こえて、窓の外へ視線を向けると、白いシャツを身に纏ったレイがこちらに背中を向け、分厚い雨雲の隙間から時折零れる月の光を見上げていた。
青白い常夜灯の光に照らされたレイの後ろ姿は、色素の薄い髪のせいか、いつもよりも儚く、寂しそうに見える。
シンは、柔らかな橙色の光の中に立ち尽くしたまま、彼の背中をぼんやりと眺めた。向けられていた視線に気付き、振り返ったレイは微かに笑い、ゆったりとした足取りで、こちらへ歩み寄る。
「帰っていたのか……早かったんだな」
言いながら、レイは、履いていた靴を脱ぎ、冷たい床に素足をつけた。
「早かった、って……もう、11時だろ」
「お前の"遅くなる"は、いつも午前様だからな──飯は?」
「食ってきた」
ひたひたと足音を鳴らしてこちらへ近付いたレイは、肩にそっと手を乗せて、首筋に頬を寄せた。
レイの背中を撫で、良い匂いがするプラチナブロンドに軽く唇をつける。ゆっくりと顔を上げたレイの、同じ高さにある青い瞳を見つめると、彼は、目のふちの赤味を隠すように目を伏せた。
シンはひとつ息を吐き、顔を傾けて、触れるだけのキスをする。
「飲んできたのか?」
「ん……少しね。これ、お土産」
触れ合っていた身体を離し、ワインの入った細長い紙袋をレイに手渡す。
「何か、あった?」
寂しさを滲ませたレイの肩に触れ、伏せられた瞳を覗き込むように身を屈めた。
「後で話す。……着替えてこい。飲むぞ」
「ああ。すぐに、戻るよ」
言い終えるのとほとんど同時に、レイは、シンの頬を掌でそっと撫で、口の端に唇を押しあてる。
顔をずらして柔らかな唇を軽く吸い、レイの髪を撫でたシンは、彼の傍らをすり抜けて、リビングを出た。
着替えを済ませて、再びリビングへ戻ると、レイはソファに腰を下ろし、ワインのコルクを慎重に引き抜いていた。ぽん、という軽い音とともに栓が抜ける。レイは、こちらを見て微かに笑い、ローテーブルの上のワイングラスに、赤い液体を注いでいく。レイは、対面に腰を下ろしたシンの前にグラスを置き、もうひとつを彼の方へ、そして、テーブルに残ったもうひとつを、花瓶の傍にそっと寄せた。
「──それで?何か、あったのか?」
視線を落としたままのレイに問いかけて、渋みの強い酒を一口含み、飲み下す。
「今日は、俺の…大切な人の命日なんだ」
レイは、テーブルに置いたワイングラスの脚を指先で擦りながら、呟いた。
「大切な、人?」
「ある施設で育った……親も兄弟もいない俺を、救い出してくれた人……痛みを分かち合うことが出来る、たった一人の存在だった。レイ──この名前も、彼がくれたんだ」
レイは、口元に微かな笑みを浮かべて、ワイングラスを取り、口をつけた。グラスの3分の1の量のワインが彼の口の中に吸い込まれていくさまを、シンは、瞬きもせずに見つめた。
「俺が軍人になると決めたのも、何か…役に立てるんじゃないかと思ったから…だった。……同じ色の軍服を着た姿を……あの人に見せたかった」
レイは、グラスから口を離し、濡れた唇をぺろりと舐めて、また、寂しそうに笑った。
「プラントのお偉いさんが後見人だって聞いてたから、てっきり、レイは、良いとこのお坊ちゃんだったんじゃないかって思ってた。……お前、ホント、何も言わないから……」
「誰彼構わず、言えるようなことではないからな。……ただ、お前にだけは言っておかなければ…というか、聞いて欲しいと思ったんだ」
ふいに、湿った風が室内へ流れ込み、雨の匂いが鼻先を掠めた。
さわさわと音を立てて落ちてきた針のような雫が、庭に生い茂る木々を揺らす。レイはゆっくりと立ち上がり、窓の外に脱いだ靴を室内へ入れて、大きく開け放たれた窓と、カーテンを閉めた。
「そちらに行っても、構わないか?」
「いいよ」
答えると、レイは、シンのすぐ隣に腰を下ろし、手を伸ばしてワイングラスをそっと引き寄せた。シンはボトルを取り、口に捩じ込まれたコルクを引き抜いて、ふたりぶんの空いたグラスにワインを注ぐ。
小さな溜息をつきながら、スローペースでそれを飲み干したレイは、グラスをテーブルに置き、後ろからシンの腰に手を回し、肩に頬を寄せて、身体を密着させた。
「お前がいてくれて、良かった」
吐息まじりに、レイは呟く。
「……うん?」
「毎年、この日を迎えるのが辛かった。ひとりで……悲しくて……仕方がなかったんだ」
「そっか。……寂しいモン同士だったんだな、オレたちは」
言いながら、シンは、レイの頭に頬を擦りつけた。
次第に激しくなる雨が、窓ガラスを強く叩く。レイは深く息を吐き、シンの脇腹に触れていた手に力を込めた。
肩の先が、熱い雫でしっとりと濡れていく。
失った悲しみの前では、どんな言葉も無力なのだと痛いほどに知っていた。ぬくもりが支えとなることも。
シンは黙ったまま、腰に回されたレイの手を掴み、互いの指を祈りのかたちに絡める。少しずつ力がこもっていくレイの手を、更に強い力で握り返した。
風が吹き、窓の外で、庭園の木々が音を立てて揺れる。
テーブルの上の大輪のユリは、夜が更けるにつれて、次第に、むせかえるような濃い香りを放っていく。
鼻腔に満ちる甘い匂いに眩暈を感じながら、シンは、レイの髪を肩越しに撫で、摘まみ上げた柔らかな毛先に唇を寄せた。
了[2008/06/13]
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